【 注記 】
この長い文書を読む前に、入門編の
「需要統御理論」 簡単解説
を読んでおいてください。
(要点が記してあります。)
この文書では、経済学の専門的な理論を述べる。その内容は、「需要をコントロールする方法」である。
この理論は、従来の経済学とは異なる。従来の経済学では、「需要をコントロールする」という概念はないのだ。「金利をコントロールする」とか、「物価をコントロールする」とか、そういう概念はあるが、「需要をコントロールする」という概念はない。
そのため、現在の不況下の日本のように、需要が不足しているときにも、需要を増やす方法がわからなくなる。特に、ゼロ金利になると、「流動性の罠」に陥って、手の打ちようがなくなっている。── 「需要を増やすべきだ」ということ自体はわかっているのだが、どうすれば需要を増やせるか、その方法がわからないのだ。
ひるがえって、この理論では、「需要をコントロールする」ための方法を示す。
本章の概要を、最初にざっと示しておこう。要点は、次の通り。
さて、いよいよ本論を始めよう。
最初に肝心なことがある。それは、「われわれが何をめざしているか」ということだ。何をめざしているか、それがわからないままでは、正しく先に進めない。悪くすれば、迷子になったり、間違ったところにたどりついてしまう。だから最初に、目的地を理解しておくことが必要となる。
われわれが目的とするもの。それは、「景気の安定」である。言い換えれば、一国の経済システム全体の安定である。
逆に言えば、「景気の不安定」たるインフレやデフレを避けること。これが目的となる。
実際、今の日本で問題となっているのは、デフレからの脱出である。また、かつての日本では、インフレからの脱出が問題となったこともあった。
とにかく、「景気の安定」こそ、目的となる。このことをまず、心に留めておこう。
われわれの目的とするものは、「景気の安定」である。
しかるに、従来の考え方では、そうではない。
「経済運営で大切なのは、物価の安定だ」
という考え方が主流である。「それこそ『経済学』の目的だ」と考える人は、非常に多い。経済学者でも、政府関係者でも。特に、日銀あたりには多い。
実を言うと、この考え方は、不自然ではない。「物価の安定」と「景気の安定」とは、ほぼ同義だ、というふうに考えられてきたからだ。
たとえば、インフレのときは、物価が上昇する。デフレのときは、物価が下落する。かくて、物価は、景気の指標となる。いわば物価は景気の体温計のようなものだ。だから、この体温計のような物価を安定させることで、景気も安定するはずだ、というわけだ。
これは「古典的な考え方」と言える。ところが、だ。現在では、この「古典的な考え方」は、必ずしも成立しなくなってきているのだ。つまり、物価は、必ずしも景気を示す体温計とはならなくなってきている。「景気の指標」としては、かなり問題が生じてきているのだ。
物価が「景気の指標」を示す体温計とはならなくなってきていること。その例を示そう。
ひとつの例は、バブル期である。資産インフレの進んだ時期だ。
この時期、物価はかなり安定していた。そして、この「物価の安定」を理由として、日銀は金利を上げることを常にためらった。「資産インフレが進んでいると言うが、物価は安定している。ならば、金利を上げる必要はない」というわけである。「物価の安定」という点にのみ目を奪われ、「資産インフレの拡大」という点には目をふさいだわけだ。かくて、バブルはどんどん膨張していった。男は高級車をやたらと買い、女は高級バッグをやたらと買い、高級料亭は繁盛し、ゴルフの会員権や土地や株式は異常に暴騰した。しかるに、土地や株式などは、「物価」の算定項目には入っていないから、物価は上昇したことにならない。経済全体を見れば、明らかに需要は供給を上回っていたし、大幅な需給ギャップがあって、景気過熱状態であった。しかし、政府の算定する「物価」だけは、安定的に推移した。
結局、景気は異常に過熱していたのに、物価は安定していた。── かくて、この時期、物価は景気の体温計とはならなかったのである。体温は大幅に上昇していたのだが、この体温計は「平熱」ないし「微熱」を示していたのだ。
もうひとつの例は、バブルが破裂したあとの十年間である。これは不況となった時期だ。
バブルが破裂すると、以後、十年以上にわたって、不況が続いた。しかしその間も、物価はほぼ安定していた。(正確には、1993年〜2000年。詳しい資料は、クルーグマンの著作 を参照。また、「ニュースと感想」の 10月02日 も参照。)
つまり、この時期も、物価は正しい体温計とはなっていなかった。景気が低迷していたのだから、物価もまたマイナスになっていてもよかったはずだ。しかし、そうはならず、ほぼ 0% を保っていた。( ほぼ 0% というのは、本来なら、インフレでもデフレでもないときの物価上昇率だ、ということになるはずだが。)(なお、さらに景気が悪化して、2001年ごろになると、ようやく、物価も下落してきたが。)
結局、ここでも、物価は景気の体温計とはならなかった。実際には体温は大幅に低下していたのだが、この体温計は「平熱」という状態を示していたわけだ。
以上で二つの例を示した。バブル期と、バブル後と。── これらは、実際にあった例である。一方、頭のなかの思考実験では、もっと極端な場合を想定することもできる。
(1) 完全不況
完全不況という例を想定してみよう。失業率が 99% で、それでも物価が安定している、という状態である。
このような場合は、ありうる。たとえば、1% の人々だけが働いて消費し、残りの 99% の人々は経済の圏外にある場合である。99%の人々は、運が良ければ、自給自足する。運が悪ければ、生産もせず、所得もなく、消費もなく、餓死するだけである。この場合でも、1%の人々の間だけで、物価の安定は保たれている。だから政府は「すばらしい経済状態」と自賛するだろう。
(2) 完全好況
逆に、完全好況という例を想定してみよう。需要も供給も異常に増えるなかで、物価は安定している、という状態である。
このような場合は、ありうる。需要は異常に増えるが、供給も異常に増えるので、需給が釣り合って、物価は安定しているわけだ。一見、「めでたしめでたし」である。
とはいっても、需要が増えているのは、無駄遣いが盛んになっているだけだ。不必要なものをやたらと購入して資源を浪費していく。無駄な公共事業が乱発され、環境はひどく破壊される。空気も水も汚れ、地上からは緑が消えていく。また、供給が急激に増えているのは、労働時間が急速に増えているだけのことだ。当然、長時間残業や徹夜や夜勤が常態化する。あげく、過労死も続出する。そのおかげで、葬儀屋がますます繁盛し、景気はますます上昇する。
こういうふうにメチャクチャな(というか、漫画チックなほどハチャメチャな)状態であっても、物価はとにかく安定している。だから政府は「すばらしい状態」と自賛するだろう。
結局、上の (1) (2) で、二つの極端な例を示した。景気が極端に縮小した場合と、景気が極端に拡大した場合と。── いずれも、好ましい経済状態ではない。にもかかわらず、「物価の安定」だけは保たれている。だから、「物価の安定」を最優先とすれば、いずれも「すばらしい経済状態」となってしまう。── しかし、それはおかしい。
だから、結局、物価は景気の体温計とはならないのだ。物価と景気は、たしかに無関係ではなくて、たいていは比例するものだが、しかし、必ずしも完全に比例するわけではないのだ。せいぜい、「正の相関関係がある」と言えるくらいだろうか。いや、それもおぼつかないかもしれない。この15年ほどの日本を見れば、物価はあまり変動しないのに、景気は山頂から谷底へと極端に変化した。となると、両者は「ほぼ無関係だ」とさえ言えるくらいだ。
「物価は景気の指標とはならない」── なのに、政府と日銀は、このことを認識できなかった。そして、「景気の安定」ということを忘れて、ひたすら「物価の安定」だけにこだわってきた。── その結果が、バブルの膨張であり、バブル破裂後の長期不況である。
つまり、「物価の安定」だけにこだわって、「景気の安定」を二の次にした結果、景気の大きな振幅を招いた。経済運営の完全な失敗である。(これほどの大失敗をしても、いまだ日銀は過去の失敗に対して反省しない。今でも「自分たちは常に正しい」と言い張るばかりである。)
ただ、経済運営を失敗したとしたが、私は別に、「政府や日銀は馬鹿だった」と言っているわけではない。政府や日銀も、バブル期には景気が過熱気味であることを認識していたし、バブル後の不況期には景気が縮小気味であることを認識していた。しかし、それにもかかわらず、そのときの事態を正しく認識できなかった。つまり、事態を過小評価してきた。経済成長率とか、需給ギャップとか、失業率とか、そういった指標については常に過小評価してきた。かわりに、物価だけに注目してきた。
バブル期には、「株価は暴騰しているし、土地も暴騰しているが、物価が上がっていないから、景気はさして過熱していない」と判定した。
バブル後の不況期には、「失業は急増しているし、倒産も急増しているが、物価はほぼ安定しているから、景気はたいした不況ではない(むしろ物価は少し上昇しているから、不況というよりは好況だな)」と判定した。
いずれの場合も、「物価は安定している」という点だけを見て、事態を過小評価した。事態を正確に認識できないまま、インフレやデフレをいっそう拡大させた。── すべては、「物価」という不完全な指標を用いていたせいだったのだ。
ここで、われわれは、初めの話に立ち戻る。
「目的は、景気の安定である」
と述べた。その言葉は、今こそ意味をもつのだ。
「景気の安定」と「物価の安定」が、もし同義であるのならば、そのどちらをめざしてもいい。しかるに、この両者は同義ではないのだ。とすれば、どちらか一方を優先しなくてはならない。
(1) 物価の安定
「物価の安定を優先する」── この場合も、なるべくなら、「物価の安定」と「景気の安定」の両立をめざす。しかし、両者が矛盾する場合には、「物価の安定」を取り、「景気の安定」を捨てる。
その経済運営の例は、過去の日銀が見せたとおりだ。物価の安定だけを指標として、バブルをいっそう膨張させたり、不況をいっそう深刻化させたりした。今でも、「インフレ目標」を断固として拒んでいる。つまり、物価を1%でも上昇させるくらいだったら、恐慌に突入した方がマシだ、という考えである。(世界的には、こんなことを主張しているのは、日本だけ。どこの国でも、2%以上の物価上昇を許容することで、不況を避けている。)
(2) 景気の安定
「景気の安定を優先する」── この場合も、なるべくなら、「物価の安定」と「景気の安定」の両立をめざす。しかし、両者が矛盾する場合には、「景気の安定」を取り、「物価の安定」を捨てる。
その経済運営の例は、世界各国が示している。世界中のどの国でも、2%〜4%の物価上昇を問題視せずに受け入れている。と同時に、不況を避けている。いわゆる「インフレ目標」という政策である。
なお、「インフレ目標」を用いて具体的に物価上昇率を明示する、という政策を採っていなくても、実質的には同じ経済運営をしている国がほとんどだ。「物価上昇率を 0% まで下げなくてはならない」などと主張しているのは、日本だけだ。そして、それを実現した日本は、物価上昇率を 0% まで下げたのと同時に、不況になった。
この「景気の安定を優先する」という方針は、「物価上昇」を許容するが、しかし、だからといって、一部の人が懸念するように、「メチャクチャな超インフレ」を許容しているわけではない。常識的な範囲内の物価上昇率(2%〜4%程度)となる。そして、そのような物価上昇を痛みとして我慢することで、景気を安定させることを優先するわけだ。
本論では、この立場を取る。つまり、「景気の安定を優先する」という方針だ。
なぜなら、「インフレ」は、単なる経済的な損失しかもたらさないが、「不況」はとてつもない損失をもたらすからだ。倒産・会社破壊・失業・自殺……など。
もう少し正確に言おう。4%のインフレは、心理的には不安をもたらすが、所得は4%以上も上がるし、預金には4%程度の利息が付くから、社会全体としてみれば、マイナスよりもプラスが大きい。「物価上昇の痛み」とは、金銭的な痛みと言うよりは、心理的な痛みである。一方、0%の物価上昇またはマイナス3%の物価下落は、莫大な倒産(不良債権の発生)をもたらすので、社会全体に莫大な損失を与える。これは心理的な損失ではなく、現実的な損失である。この損失を埋めるためには、国家は莫大なコストを要する。2001年3月現在、銀行は不良債権処理のために、33兆円の不良債権処理コストがかかっている。( → 興銀のレポート ) さらにその後、大幅に不良債権が増えている。これを埋めるために、公的資金を投じるか否かは、実は、あまり問題ではない。政府が埋めなければ、銀行が埋めるが、銀行が埋めるというのは、預金者の利子を転用するわけだから、しょせんは、国民全体が自分たちの財布の金で埋めるわけだ。政府が払おうと、銀行が払おうと、政府公務員や銀行員の財布が減ることはなく、国民全体の財布が減る。そして、このコストは、現実的な金なのだ。株が下がったとか、地価が下がったとかで、「国民の資産が膨大に減価してしまった」という説もあるが、これは、元の高騰した価格がバブル価格だっただけのことだ。単に帳簿で値が上がったのが、また帳簿で元の根に戻っただけだ。手元の財布の金が減ったわけではない。しかるに、不良債権処理のコストは、まさしく現実のコストであり、手元の財布の金が減ることを意味する。── つまり、不況というのは、それほどにも莫大な損失をもたらすのだ。
しかも、このコストは、まったく払う必要のないコストなのである。「不況は劣悪な企業を退出させる」という意見がある。なるほど、そのとおりだ。不況は劣悪な企業を退出させる。ただし、そのために、莫大な社会的コストがかかるのだ。一方、不況でない平常状態ならば、どうか? 劣悪な企業は、やはり退出させられる。(それが市場経済というものだ。) ただ、違いはある。ここでは、社会的なコストはかからない。劣悪な企業は、環境の激変がない限り、一挙に退出させられることはない。徐々にシェアを失い、徐々に利益を失い、自主解散という形で徐々に退出するだけだ。しかるに、不況では、環境の激変によって、一挙に破産という形になる。そして社会に赤字をばらまく。 ( → 「ニュースと感想」9月17日 )
だからこそ、不況というのは、大量の無駄の発生であり、是非とも避けなくてはならないのだ。
「景気の安定」を「物価の安定」よりも優先する、とすでに示した。
では、この場合、物価の安定を優先しないということには、どのような意味があるか?
「物価の安定を優先しない」ということは、「物価の安定をないがしろにする」ということではなくて、「物価の安定ばかりにこだわらない」ということだ。換言すれば、「政策の自由度を高めておく」ということだ。
つまり、なるべく物価は安定させるのだが、場合によっては、もっと重要なことのために、その束縛ないし制約から逃れるということだ。(手足を縛るようなヒモは捨てる、ということ。)
たとえて言えば、自動車の運転速度だ。高速道路で運転しているとき、「速度の安定」という原則を立てる。なるべく一定の速度を保とうとする。普通はそれでいい。あえて速度を、急激に上げたり下げたりする必要はない。しかし、何らかの事情で、急加速ないし急ブレーキの必要が生じる。こういうとき、「速度の安定」という原則に縛られていると、急加速も急ブレーキもできなくなる。あげく、正面の障害物にぶつかって、事故を起こして、死んでしまうかもしれない。── だから、「速度の安定」という原則に、やたらとこだわる必要はないのだ。「速度の安定」は、あくまで、一応のメドにすぎない。目的は別にある。安全に移動することだ。それが最優先となる。そして、その最優先の目的のためには、「速度の安定」という制限をはずして、自由な選択肢をもつ必要がある。
結局、そういうことだ。「物価の安定」を捨てるということは、「物価の安定」をなおざりにすることではなくて、政策の選択肢を増やすこと(政策の自由度を高めること)だけなのだ。この点、誤解しないように。
すでに示したとおり、「物価」は「景気」を計る指標としては不十分である。壊れた体温計のようなものだ。では、どうすればいいか?
われわれの目的は、「景気の安定」である。そして、「景気の安定」をめざすにあたっては、「景気の状態」を計るための指標が必要となる。では、どんな指標が? 「物価」以外に、うまい指標があるだろうか?
これに対する解答は、簡単だ。「物価上昇率」という単一の指標を取るかわりに、「物価上昇率」を含む、多くの景気指標を用いればよいのである。
このような景気指標としては、経済学で、すでにさまざまなものが知られている。たとえば、次のように。
物価/株価/在庫水準/倒産件数/失業率/有効求人倍率/金利/マネーサプライ/……
これらのほか、いくつかの指標を組み合わせて景気を示そうとした総合的指標もある。たとえば、「景気動向指数」としての、「先行指数」とか「一致指数」とかだ。「日銀短観」というのもある。( → 「ニュースと感想」 10月02日 )
とにかく、これらの多くの指標を見て、総合的に判断すればよい。
たとえば、「株価」だ。これだけを見ても、かなりわかる。バブル期には株価が異常高騰していたので、景気が過熱しているとわかるし、バブル後では株価が大幅下落したので、景気が冷えている、とわかる。株価以外に、他の指数を見ても、だいたい同様な結論が得られるだろう。とにかく、「物価」だけを見るよりは、これら多くの方を見た方が、ずっと正しく景気の現況を判断できるはずだ。
さて、このようにさまざまな指標があるが、そのうち、特に重視するべきものがある、と私は考える。それは、「経済成長率」と「消費性向」である。
(1) 経済成長率
まず、「経済成長率」だ。これは、景気の状態をかなり正確に表す指標となる。
生産性の向上というものは、年ごとに大きく変動するものではない。だから、もし短期間に経済成長率が急激に増えたら(減ったら)、景気が拡大している(縮小している)とわかるのだ。
経済成長率が重要なわけは、「国民総生産」と関連する。国民所得は、「生産」「分配」「支出」の3面でとらえられる。そして、「三面等価の原則」によって、生産総額と支出総額は同等である。これらを見れば、経済活動の総額がわかるから、その成長率を見ることで、景気の状態を判断できる。
たとえば、成長率が急に高くなったら、景気過熱である。このときは「景気が良くて好ましい」と浮かれるべきではなくて、異常に過熱した景気を冷やすべきなのだ。さもないと、次に大きな不況が来る。実例としては、バブル期の日本とか、1920年代(世界大恐慌の直前)の大好況の米国などがある。浮かれたあとには、ツケ払いの時期が来る。( ただし、バブル破裂直後の不況は、ツケ払いだったが、1994年以降の不況は、経済運営の失敗による不況である。 → 「ニュースと感想」 10月02日 )
(2) 消費性向
次に、消費性向だ。これもまた、景気の状態をかなり正確に示す指標となる。
平均消費性向という指標がある。支出額を所得で割った値である。これは通常、80% 〜 90% 程度となる。過剰消費する人(クレジットカード病の人など)が国中にあふれると、この値が 100%を越えることもある。(好況期の米国がそうだ。)
限界消費性向という指標もある。支出の増分を、所得の増分で割った値である。(既存の消費と所得を除いて、新規の増分となる消費と所得だけを考えて、算出するわけだ。) これは通常、80% 〜 90% 程度となる。支出が長期間抑制されていたあと(不況のあと)では、この値が 100%を越えることもある。
消費性向(上記の2種類ある)もまた、景気の状態を示す指標となる。消費性向が高まっているときは、「景気が過熱している」と判断できる。消費性向が低くなっているときは、「景気が冷えている」と判断できる。
実を言うと、消費性向と景気とは、必ずしも比例関係にない。景気が過熱しているときは、消費性向は上限のあたりに張りついている。ここでは、消費性向(支出の割合)は変わらないまま、所得の絶対額が増えることで、支出がどんどん増大し、景気はどんどん過熱していく。一方、不況のときは、個人消費は冷え、企業投資も冷え、国民の消費は大幅に低下する。それでも国民の所得はそう急激には減らない[賃金の下方硬直性]から、消費性向はどんどん下がる。だから、消費性向が大きな意味をもつのは、不況のときである。
「経済成長率」「消費性向」という二つの指標は、経済の規模を見る指標としては、特に着目すべきものだ。ただ、難点もある。
経済成長率の上昇は、「生産性が向上したゆえだ」と誤解されやすい点が問題だ。
これらはいずれも、「生産性の向上が新たな景気拡大をもたらした」というふうに、薔薇色で語られたものだった。しかし、実際にはそうではなかったことは、クルーグマンが指摘したとおりである。実際、いずれも、それらの急成長は頭打ちになった。(東南アジアとソ連は、労働力の急速な投入の結果だった。……クルーグマンの指摘。)(日本と米国は、バブルだった。)
これらの景気拡大は、それが終わったあとでは、「実は生産性の向上などはなかった」と判明した。しかし、景気が拡大している最中には、そうは認識されず、「これまでにないすばらしい状態なのだ」とちやほやされたものだった。(日本のバブル景気のときは、「日本経営」がもてはやされた。米国のIT景気のときは、「IT革命」などともてはやされた。)
このようにして、経済成長率の上昇があっても、「すばらしい」ともてはやされて、それが景気過熱という困った状態だということが認識されにくいのである。景気が過熱していることは明らかになっても、
「だったらそれが何だって言うの。好況だからすばらしいじゃないの」
と反論されやすいのだ。相手が経済学者なら説得も可能だが、相手が素人だと説得しにくい。素人には物価上昇率だけを見せて、
「ほら、物価が上がっているでしょう。だから駄目なんだ」
と教えた方がわかりやすい。
消費性向の方も、問題がある。
先にも述べたとおり、消費性向は、支出の比率であり、支出の絶対額とは異なる。だから、景気の敏感な指標とはなりにくいのだ。消費性向が大幅に低下していれば、明らかに需要が縮小しているとわかるが、それ以外の場合には、どこまで重視していいのか、問題となる。
そこで、この二つとは別に、もう少し景気に敏感な指標も考えられる。それは、労働の需給を示す指標だ。具体的には、「失業率」と「残業時間」である。
(1) 失業率
「失業率」は、これが高まったとき、明らかに不況(景気後退)であると見なしていいだろう。ひょっとして、失業率が高まっているのに好況だ、という場合もあるかもしれない。それは、社会格差が生じている場合だ。大部分の人は好況を享受しているのだが、一部の人が転職のしようもなく失業しているわけだ。たとえば、単純労働者だけが失業するということはあり得る。外国人労働者が無制限に流入した場合、中高年の単純労働者は大幅にあぶれるだろう。こういう形で、「好況下の大量失業」という事態は発生する可能性はある。ここでは、技能労働者や専門技術者など、大半の人は豊かになるが、一部の弱者は大量に失業する、という形で、富の偏在が起こる。平均値を見れば上昇しているので、好況であるわけだが、同時に、富の偏在により、貧者はいっそう貧しくなり、大量の失業が発生する。かくて「好況下の大量失業」という事態が発生するわけだ。(主として、国の政策ミスに原因がある。)
(2) 残業時間
「残業時間」は、これが高まったとき、明らかに景気過熱であると見なしていいだろう。(労働力は同じなのに、急激に供給が増えて、急激に仕事が増えたわけだ。)ひょっとして、不況なのに残業時間が高まった、という場合もあるかもしれない。というか、かなりあるだろう。これは第2章や第3章の「セーフティネット」や「ワークシェアリング」のところで言及したとおりだ。つまり、首切りをして、残った人員に残業させる、と言うわけだ。つまり、一部の人だけを見れば、「不況なのに残業時間が高まった」ということになる。それでも、国全体で見れば、そうはならない。統計では、不況のときは総労働時間が急激に減少する(残業時間も減少する)ことが、はっきり示されている。
結局、上記の「失業率」と「残業時間」は、景気を示すための指標となるわけだ。それも、かなり敏感な指標となる。
しかも、これらは、示す領域が異なる。供給過剰(需要不足)のときには「失業率」が高まる。供給不足(需要過大)のときは「残業時間」が高まる。── 逆に言えば、「失業率」は不況を示す指標となり、「残業時間」は好況を示す指標となる。(いずれも、需給ギャップに対応する指標である。)
というわけで、この二つの指標は、景気の判定には、なかなか好ましい。
また、それはそれとして、別の理由もある。そもそも、景気の上下に関係なく、失業率は低いほどいいし、残業時間は少ないほどいい。だから、人間的な生活を送るためには、これらをともに低くするような状態(好況でも不況でもない状態)に、導くべきなのである。
たとえば、特に景気が過熱しているわけではなくとも、残業時間が多すぎるようであれば、景気をいくらか冷やして、残業時間を低くするように導くべきなのだ。逆に、特に景気が冷えていなくても、失業率が高ければ、景気をいくらか過熱気味にして、失業率を低くするように導くべきなのだ。
ここまで述べてきたことをまとめてみよう。
われわれの目標は、「景気の安定」である。そして、景気が安定しているかどうかを見るには、「物価上昇率」だけではなくて、さまざまな指標を見るべきである。特に、「経済成長率」「消費性向」「失業率」「残業時間」が大事である。それらの指標を見れば、景気が安定しているかどうかを知ることができる。
となると、残る問題は、「景気を安定させるには、どうすればいか」だ。
そこで、「景気を安定させる」ために、比較として、「景気が安定していない状態」というものを考えてみよう。これは、どんな状態か?
すると、次の二つが考えられる。
こういう場合には、景気は安定していない。いずれにしても、供給の変動が、需要の変動に、追いつかないからだ。つまり、需要というものは短期的に大きく変動するが、供給というものは、短期的には変動しにくいのだ。
その理由は明らかだろう。需要は、心理的なものなので、短期的にたやすく変動することがある。一方、供給は、生産設備の増強ないし更新などが必要なので、たやすく変動させることはできない。
過去にも、そういう例はある。「ティラミス」「ナタデココ」「タマゴッチ」などだ。急激なブームによって、需要が異常なほどにも拡大した。供給側は、それに応じようとして、必死に努力したが、努力して生産設備を十分に増強したころには、ブームは去っていた。残るは遊休する設備だけ、というふうになった。(ナタデココの場合、生産する東南アジア諸国では、ブームのあとで、かなり深刻な被害が出たらしい。)
そういうわけだ。短期的に変動しやすいのは、需要である。そしてまた、外部からコントロールしやすいのも、需要である。心理的な要因が大きいから、心理的な要因しだいで、需要を容易に、高めたり下げたりすることができるはずなのだ。
たとえば、現在の不況だ。消費性向が極端に小さくなっているが、これは「不況で先が見えないので不安だ」というのが、主な原因だろう。実際、それももっともだと思える。「まさか自分が……」と思っている人々が、次々と突然失業していく。これを見れば、誰もだって、自己防衛のために、消費を切りつめて、貯蓄に回すだろう。そして、そのことがかえって、景気の悪化をもたらして、自らを失業に導くことになる。(これは逆説的ではある。悪夢を恐れるゆえに、悪夢を招いてしまうわけだ。悪夢を恐れなければ、悪夢は実現しないのだが。)
結局、景気を安定させるには、コントロールしやすい需要の方を、コントロールすればいいわけだ。(供給の方はコントロールしたくてもコントロールできない。供給の増加や減少は、あくまで、長期的なものであり、その変動の幅も少ない。── この点で、「構造改革で景気回復」という「供給向上路線」が間違いであることがわかる。)
需要をコントロールすること。それによって、需給ギャップを解消し、また、経済の規模や経済成長率も安定させる。そして同時に、物価も安定させる。── これが、われわれのなすべきことである。
たとえば、インフレのときは、需要を引き締めて、経済成長率を低下させる。デフレのときは、需要を刺激して、経済成長率を高める。……このようにして、景気を安定させるわけだ。
となると、あとは、その方法だ。それについては、このあとで体系的に述べることとしよう。
景気を安定させるには、需要をコントロールすればよい。それがすでに得た結論である。
そこで、次に、それを実現するための方法を述べるわけだが、その前に、ひとつの問題にぶつかる。
「なぜ需要は不安定になるのか?(なぜ需要の上下動が起こるのか?)」── そういう問題である。
われわれの目的は、需要を安定させることである。そこで、そのためには、まず、需要が不安定となる理由を知るべきだろう。原因を知ってこそ、それへの対処もできるからだ。
そこで、以下では、この問題への答えを得るために、物事を根本から考えてみることとする。
以下では、経済について考察するにあたって、ひとつの基本的な立場を取る。それは、
「経済を動的(ダイナミック)なものとしてとらえる」
ということだ。換言すれば、
「経済を時間的に変化するものとしてとらえる」
ということだ。
実を言うと、これは、従来の経済学と比べると、かなり趣を異にする。
従来の経済学では、むしろ、
「経済を静的なものとしてとらえる」
「経済を時間的に変化しないものとしてとらえる」
という傾向がある。
たとえば、「〜などの諸条件が同じであるとすれば」というふうに、条件が固定的であることを仮定する。
また、価格などについて、「均衡点を探る」という考え方も、考え方の前提として、「安定的な状態がある」「固定的・静的な状態がある」ということを仮定している。(そこを終着点として考えている。)
また、均衡点にたどりつくまでの過程を考える場合も、経済システムが時間的に変化するものと考えたりはしないで、固定的な経済システムが続くと考える。(「経済システム全体は変化しない」と仮定する。)
また、限界消費性向の乗数効果(いわゆる波及効果)を考えるときも、限界消費性向は時間的に不変な定数と見なされる。(時間的に変化するとは見なさない。)
とにかく、いずれの場合も、たとえ時間的な経過を考慮する場合ですら、経済システム自体は時間的に変化しないものと見なすものだ。
しかし、現実の経済は違う。経済システム(たとえば日本やアメリカの一国経済)は、時間的にたえず変化していく。たとえば、何らかの経済的事件(たとえば金利の引下げ)が起こると、それによって経済システム全体が、変化してしまう。(たとえば不況から好況になる。)
こうなると、先の仮定はすべて無効となる。「均衡点を探そう」とか、「乗数効果を考えよう」などと研究しても、その前提が崩れてしまうわけであるから、研究は無意味になる。たとえば、金利が引き下がると、景気が不況から好況に変化し、それによって消費性向が変化し、乗数効果が変化する……というふうになるが、そうなると、話は非常に複雑になる。最初の簡単な(静的な)仮定における結論は、ほとんど無意味になる。
まあ、だからといって、「静的な状態を仮定する従来の経済学は無意味だ」ということにはならない。話を単純化しているわけだから、単純化した範囲内で、ある種の近似値を得る。
そうはいっても、近似値を得るのが目的ではなく、話を根本的に考えたいときは、経済理論は、それ自体のうちに、経済システムの時間的な変化を取り込まなくてはならない。そうすることがどうしても必要なのだ。特に、経済の変化たる景気循環を考えるときは。
そこで、このような立場の経済学を、「動的経済学」(ダイナミック経済学)と呼ぶことにしよう。これは「時間的な変化」を取り込んだ経済学である。
逆に、「時間的な変化」を取り込んでいない経済学を「静的経済学」と呼ぶことにしよう。
この両者は、どういう関係にあるか? 相反する関係にあるか?
いや、そうではない。動的経済学は、時間的な変化の影響を無視すれば、静的経済学と同じになる。静的経済学の成果を無視するわけではない。(これは当たり前だ。)そして、静的経済学の成果に、「時間的な変化を考慮すれば」という考察を加えたものが、動的経済学となる。
この意味で、動的経済学は、静的経済学の拡張となっている。集合論の記号で言えば、
静的経済学 ⊂ 動的経済学
というふうに、動的経済学は、静的経済学を含んでいるわけだ。
動的経済学は、静的経済学と対立するものではない。このことに注意しよう。結論が異なる場合もあるが、それは、動的経済学が静的経済学と矛盾するからではなくて、動的経済学が静的経済学よりも物事を深く考えているからだ、というだけのことだ。
動的経済学では、経済システムを時間的に変化するものとしてとらえる。
ただ、時間的変化といっても、いろいろとある。そのうちで最も影響が大きいのは何か? それは、生産性の向上である。これこそは、経済システムを根本的に変化させるものだ。
たとえば、小泉内閣は「構造改革」を唱える。これは、経済システムの時間的変化としてとらえると、よく理解できる。「構造改革」は、古い産業から新しい産業へと、産業構造を転換させようとする。たとえば、時代遅れな一部の工業を縮小させ、その余剰労働力を第三次産業に移転させようとする。これは、経済システムの時間的変化として理解できる。
さて、このような「構造改革」は、別に、小泉の専売特許ではない。高度成長期のころは、「合理化」という言葉がはやったが、これも、同じことを意味する。かなり昔の浜口雄幸(ライオン宰相)のころの井上準之助の経済運営も、(平価切り上げによる)「産業の合理化」を目的にしていた。いずれも産業の体質を強化しようとしていた。昔は絹などの産業から別の産業へ。高度成長期には繊維などの軽工業から重工業などへ。小泉内閣のころは重工業などからIT産業などへ。……いずれも、産業構造を改革しようとしてきた。
そして、このような産業構造の変化ないし改革は、たしかに実現されてきた。第一次産業の人口は一貫して減少してきたし、第二次産業の就業人口も戦後は一貫して減少してきた。かわりに、第三次産業の就業人口は一貫して増加していった。── このように、「産業構造の変化」という傾向ははっきりと見て取れる。(小泉がいちいち大げさに言うまでもない。言わなくても、自然にそうなるのだ。)
では、このような経済システムの時間的な変化は、なぜ起こったのか?
第一次産業や第二次産業では、労働人口は減っている。だから、「これらの産業が縮小したからだ」というふうに思うかもしれない。しかし、そうではない。逆に、これらの産業は拡大してきている。つまり、これらの産業の生産高はどんどん増えている。生産高が増えているのに、就業人口が減っているわけだ。── では、なぜ?
その理由は、これらの産業で、生産性が向上したからである。
たとえば、工業は技術革新で新技術を導入していった。農業は機械化などを取り込んでいった。このようにして、生産性を向上させていった。(なお、意外に思われるかもしれないが、工業よりも農業の方が生産性の向上率は高い。これは、なぜかと言えば、農業はもともと生産性の絶対値が極端に低かったからだ。もともと生産性の絶対値が低ければ、その後の向上率は高くなるものだ。もちろん、向上したとはいえ、いまだに生産性の絶対値は低いままだが。)
とにかく、このようにして、年々、生産性は向上していった。かくて、生産額は増えても、労働人口は減ってきた。(なお、実際には、「生産性の向上」が原因となって、労働人口が減る。ただし、統計を取るときは、労働人口の減少を見て、生産性の向上を推計する。話の順序が逆になるわけだ。ただし、原因と結果が逆になるわけではない。)
「生産性の向上」は、社会に大きな影響をもたらす。単に構造の変化を結果するだけでなく、もっと大きな影響をもたらすのだ。
まず、統計的に見よう。一国全体の「生産性の向上」は、年率 2.5% 程度となる。4年で 10% である。つまり、生産量が同じだとすれば、従業員は 4年間で 10% も不要になる。それほど多大な従業員が不要になる。そして、不要になったものは、外に吐き出す必要が出てくる。
これは非常に大きな問題となる。個々の企業で 10% の従業員が余ったとしても、それだけなら問題とならない。失業した社員は、同業他社に転職すればいいからだ。しかし、第二次産業全体で 10% の従業員が余ったとしたら、その影響は途方もないものだ。 100万人規模の労働者が、同業他社への転職もできずに、第二次産業の外へ、いっせいに吐き出されてしまうのだ。それも、たったの 10年程度で。人の労働寿命は40年ほどもあるのに。
生産性の向上は、このような巨大な変化を経済システムに生じさせるのだ。そのことを、まず、理解しておいてほしい。
経済システムは時間的に変化を遂げる。その理由は、生産性の向上があるからである。生産性の向上がある限り、経済システムの変化はどうしても必要となる。
これをモデル的に示そう。 A,B という二つの箱があったとする。それぞれに水が 10 リットル入っていたとする。ここで、Aという箱が変化して1割小さくなり、Bという箱が変化して1割大きくなったとする。このとき、Aという箱に入っていた1リットルの水は、Bという箱に移動しなくてはならない。どうしても、そうする必要がある。(さもなくば、あぶれた分が、社会的な混乱を引き起こす。)
ここで問題となるのは、移動のしやすさである。水ならば、二つの箱の間をチューブで結んで、Aという箱からBという箱へ、スイスイと移動させることができる。水には流動性がある。しかし、人間は水ではない。人間は水のような流動性はない。そう簡単に、右から左へと移動させることはできない。たとえば、原子力産業に勤めていた技術者が、翌日にはリゾート産業の専門家として同等の給与で雇用される、というようなことはありえない。国鉄に勤めていた車両整備の専門家が、翌日には携帯電話の整備員として同等の給与で雇用される、というようなことはありえない。
というわけだ。つまり、経済システムは時間的に変化することを必要とされているにもかかわらず、現実の経済システムはそれに応じて変化することができないわけだ。「要求」に「現実」が追いつかないわけだ。
これを、「柔軟性の不足」と呼んでもいいだろう。経済システムは、次々と変形していくことを必要とされているのだが、柔らかな水のようには楽に変形してはくれず、固い粘土のように変形が難しいわけだ。
静的経済学では、「経済システムは理想的な柔軟性をもつ」と仮定されることが多い。どこかで商品が不足して価格が高騰すれば、ただちに別のところから商品が流れ込んで、価格の高騰を引き下げる、というふうに。あるいは、どこかで労働力が不足して賃金が高騰すれば、ただちに別のところから労働者が流れ込んで、賃金を引き下げる、というふうに。
しかし、現実には、そうなるとは限らない。商品や労働力の移動を妨げる障壁があるかもしれない。(たとえば、台風や地震で運搬困難。) また、商品や労働力に代替性がないかもしれない。(たとえば、A型の血液が不足しているときに、B型の血液を持ってきても、代替性がない。ベンツのブレーキが壊れたときに、軽自動車のブレーキを持ってきても、代替性がない。)
というふうに、現実には、経済システムは「柔軟性」を持たないことがある。これを換言すれば、(つまり物事を逆方向から見れば)、「硬直性」をもつことがあるわけだ。
硬直性。それはつまり、経済システム全体が変化していくときに、経済の一部が、経済システム全体の時間的変化に追いつけず、従来の状態を保ちがちであることだ。その部分で柔軟性が不足していうわけだ。
こうした「硬直性」は、経済システムでは、さまざまな部分で見られる。なかでも、代表的なものとして、次のようなものがある。
これらについて解説しよう。
(1) 労働力の硬直性
労働力には、硬直性がある。労働者が、ひとつの職種から別の職種に、いきなり転職するのは困難だ。
(2) 名目賃金の下方硬直性
名目賃金には、下方硬直性がある。つまり、賃上げは容易だが、賃下げは困難である。
(3) 価格の硬直性
商品の価格にも、硬直性がある。つまり、価格は、自由に変動するものではなくて、固定されがちなことがある。たとえば、ブランド品など。
(4) 消費の硬直性
消費には硬直性がある。つまり、人はやたらと消費行動を変えないものだ。人々の消費行動には保守性がある。特に、所得が上昇しても、消費はそれに比例して上昇しないものだ。── そして、このことが、非常に大きな意味をもつ。[ (1) 〜 (3) は、あまり大きな意味をもたない。]
以上の四つの硬直性について、もっと詳しく知りたければ、次の補足的な説明を読んでほしい。
(1) 労働力の硬直性
労働力には、硬直性がある。労働者が、ひとつの職種から別の職種に、いきなり転職するのは困難だ。
転職は、だいたい同じ領分でなら、ある程度は可能である。たとえば、平社員から、管理職になったり。電気の技術者から、ソフトウェアの技術者になったり。経理職から営業職になったり。── その程度の移動なら、なんとか可能である。そして、こういう移動を各人が少しずつやれば、一国全体で産業構造を少しずつずらすこともできる。
とはいえ、まったく別の職種に転職することは困難だ。ものには限度がある。デリバティブをやっていた銀行マンが、明日から吉本興業で漫才をやれ、と言われても無理だ。ソフトウェアのシステムエンジニアが、明日からワインのソムリエをやれ、と言われても無理だ。「おれはどんな産業でも、管理職をやれるぞ。銀行でもソフトハウスでも吉本興業でも」という人だって、しょせん、管理職以外にはなれまい。(管理職というのはむしろ社会的には最も不要な職種かもしれない。)……結局、誰にでも勤まりそうな職種としては、せいぜい、単純労働者くらいだろう。しかし、それでは、給料が激減してしまう。そもそも、本人の有益な技能を生かせないというのは、社会的に損失である。
一般的に言えば、技能を積んで専門性を高めれば高めるほど、転職は困難となる。
というわけで、人間は、あっちこっちへ「はい」と柔軟に移動するわけには行かないのだ。そのように、硬直性がある。これは人間自体に由来する硬直性である。人間が粘土であれば、好き勝手に作り替えることもできるが、人間は粘土ではないから、すでにできた形で生かすしかない。少しだけなら変形もできるが、全然別のものには変形できない。
(2) 名目賃金の下方硬直性
名目賃金には、下方硬直性がある。つまり、賃上げは容易だが、賃下げは困難である。
これには、例外がある。労働者が賃下げをたやすく受け入れることがある。それは、よほどの不況のときだ。「首切りよりはマシだ」として受け入れるものだ。しかしそれはあくまで「よほどの不況」という例外的な状況の場合だ。(戦後の日本では、2001年ごろだけだ。)
通常は、賃下げは受け入れがたいものだ。また、経営者としても、賃下げをしたがらないものだ。たとえ労働組合が軟弱で「賃下げしても抵抗しません」と白旗を揚げたからといって、「じゃ、やっちゃえ」とどんどん賃下げをすれば、そんな会社からは労働者が逃げ出す。逃げ出すにあたっては、優秀な労働者から逃げ出すものだ。そして優秀な労働者がライバル会社に転職してしまうので、他社には優秀な労働者ばかりがいて、自社にはクズ社員ばかり、となる。新卒者も、優秀な新卒者はみんなライバルに流れて、自社に来るのは落ちこぼれの役立たずばかりとなる。踏んだり蹴ったりだ。だから、まともな経営者は、少しぐらい経営が悪化したからといって、やたらと賃下げをするようなことはない。
一番の問題は、名目賃金を下げるには、非常に手間がかかる、ということだ。賃上げでさえ、春闘にはさんざん手間がかかる。なのに、賃下げとなったら、ストの発生とか、裁判沙汰とか、さんざん苦労する可能性がある。賃下げで浮く資金より、無駄な手間暇をかけるコストや、労働争議による生産性の低下の方が、大きな問題となる。だったら、そんな割の合わないことは、やりたがらないものだ。たとえ賃下げの必要があるとしても、当面は据え置きにしておいて、あとで景気が回復したときに、賃上げを抑えればいいのだ。だから、普通、そうするものだ。実際、過去の例では、たいてい、そうしてきた。
というわけで、名目賃金には下方硬直性があるのだ。
(3) 価格の硬直性
商品の価格にも、硬直性がある。つまり、価格は、自由に変動するものではなくて、固定されがちなことがある。
「いや、市場経済では、価格は市場で柔軟に決まるはずだぞ」
という反論も来るだろう。たしかに、原則的には、自由に柔軟に決まる。しかし、例外もあるのだ。
一般的に言えば、「多品種少量生産」ないし「個別生産」の場合には、価格の柔軟性は、あまりない。(たとえば、特許で守られている医薬品や先端技術品では、価格の硬直性は非常に高い。ハンドバッグなどのブランド品も。)
市場経済で柔軟に価格が決まるのは、「同品種大量生産」の場合だ。こういう商品は、激烈な競争がある。たとえば、米や小麦のような農産物だ。これらの農産物は、多少の差はあるものの、どれもこれも似たり寄ったりの商品である。少しだけ味がいい、といった程度の差でしかない。これらの場合には、強い価格競争が起こる。
しかし、「多品種少量生産」ないし「個別生産」の場合は、そうではない。次のような例がある。
たとえば、土地だ。土地は、一品ずつ、必ずどこかが違う。ここではあまり強い価格競争は働かない。比べる箇所は、価格以外にも、面積とか、環境とか、交通の便とか、いろいろある。少しぐらい価格が高くとも、他の条件が自分の要求に合致すれば、それを購入することがある。そして、売り主としては、そういう客が現れるのを期待して、なかなか売れない土地の値段を、いつまでも下げずにいる。ここでは、価格の硬直性が見られる。
( ※ 実際、バブル破裂後の不動産価格を見ると、なかなか下がらないで、十年ぐらいかけて、だらだらと少しずつ下がっていった。さっさと下がればよかったのに、ぐずぐずと下げしぶっていたせいで、その間に日本経済はすっかり体力をなくしてしまった。もし価格に柔軟性があって、適正な価格まで急激に下がっていれば、余力のあるうちに土地再開発もできたので、日本経済はこんなに長く不況を続けることにはならなかっただろう。[一部には、「地価を大幅上昇させれば、資産デフレが解消して、景気は回復する」と主張する人もいる。これはバブルを再現しようとしているわけで、狂気の沙汰である。経済は、帳簿価格操作というバブルによって成長させるべきものでなくて、実体経済によって成長させるべきものなのだが。])
土地に似ているが、別の例として、家賃がある。家賃もまた、価格の硬直性がある。事情は土地の場合と同様だ。家賃は、一軒(一室)ずつ、必ずどこかが違う。ここではあまり強い価格競争は働かない。
( ※ 家賃の価格の硬直性は、弱いインフレのときは当然だ。建物の質は経年劣化するから、インフレ下で家賃を据え置いて、実質的に家賃を低下させるのが常識的だからだ。ただ、デフレのときは、家賃の据え置きは、実質値上げを意味する。これは、好ましい状態ではない。デフレは間借り人を苦しめる。)
競争の少ない分野でも、価格の硬直性は強い。たとえば、新聞だ。一部の新聞社の社員が「デフレはすばらしい」なんて、のほほんとして書いていられるのは、新聞社がリストラをしないからだが、それというのも、新聞は、半独占企業となっているからだ。朝日と読売と毎日と日経でほぼ独占状態にある。あとはスポーツ新聞と夕刊タブロイド紙ぐらいだろう。普通は、朝日か読売か、どちらかだ。競争はほとんどない。しかも、月ぎめ料金なので、競争が働くのは、1回だけ。こういうふうに半独占の体制で、競争が少ないと、価格の硬直性は強くなる。仮に、競争が強くなれば、各新聞は価格競争を起こす。朝日や読売では、次々とリストラを迫られ、記者は大幅に解雇されていただろう。(そうすれば不況も他人事ではなくなるだろう。)
輸入の困難な分野も、価格の硬直性は強い。たとえば、医薬品だ。最近はいくらか緩和されたようだが、少し前まではビタミン剤まで輸入禁止されていたので、日本のビタミン剤は異常な高値になった。統制経済下にある米や麦も同様だろう。
( ※ ついでに言えば、銀行業もそうだ。銀行業は、あまりにも土着的な業務なので、外国からの参入がほとんどない。そのため、日本の銀行は好き勝手なことをやって、銀行員は信じられないほどの高収入を得ている。こんな不況のさなかで、銀行はつぶれかかっている(公的資金の導入が必要だとされているくらいだ)のに、銀行員の給料は馬鹿高値だ。それというのも、各社間で競争が少なくて、これまで暴利をむさぼり続けてきたからだ。とにかく、銀行業には、まともな市場競争は存在しない。(融資手数料や金利などの)価格は、あまり競争しないまま、価格の硬直性がある。[ただし、超一流企業向けの融資などでは、外国銀行も競争に参入することもあるので、こういう場合は、正常な価格競争が行われるようだ。一般消費者は、蚊帳の外だが。])
(4) 消費の硬直性
消費には硬直性がある。実は、前述の (1) 〜 (3) の硬直性と比べて、これが一番大きな硬直性である。そして、これこそ、注目すべき点である。
消費の硬直性とは何か? 「人はやたらと消費行動を変えない」ということだ。つまり、「人々の消費行動には保守性がある」ということだ。
なぜか? そもそも、人はやたらと生活様式を変えないものだかだ。そして、そのことが、消費行動という面にも表れるわけだ。── こういう傾向は、若者ではあまり現れないが、年輩になるにつれて強く現れるようになる。
たとえば、若者なら、パソコンやタマゴッチがブームになればすぐに買おうとするが、高齢者は「ふん」と生理的に嫌悪して買わない。携帯電話にしても、若者はすぐに飛びついたが、高齢者はそうでもない(一応普及するまでには何年か遅れた)。コンビニなどに至っては、できてから何十年もたつので、そろそろ国民全員が慣れてきてもよさそうなものだが、いまだに、客は若者が多くて、中高年は少ない。
消費行動には硬直性がある。なのに、政府はそれがないものと信じたがる。
「第二次産業から第三次産業へ構造改革したい。だから、みなさん、第三次産業の分野で消費してください。電器製品などはもうたっぷり持っているでしょうから、余ったお金で、外食やレジャーのために支出してください。そうすれば構造改革が進んで、景気も回復します」
と政府は勧奨する。そうして人々の消費行動を変化させたがる。しかし、国民は、そんな勧奨には従わないものだ。
「たしかに電器製品もパソコンも車も買ったし、金は余っているよ。でも、新しい分野で金を使うのも、おっくうだな。ディズニーシーなら、魅力的だけど、わけのわからない新しいもののためになんか、金を払いたくないね。貯金の方がマシだ」
と思うものだ。特に、若い人は別として、高齢の人ほど、そう思うものだ。── このように、消費行動には硬直性があるのだ。
そして、消費行動に硬直性があると、消費の総額にも硬直性が出るものだ。つまり、所得が増えても、その分をそのまま消費に回さずに、かなりの部分をとりあえず貯蓄に回すものだ。
このことが問題となる。本来ならば、生産性の向上で所得が増えた分、支出を増やさなくてはならない。もちろん、その支出先は、第三次産業の新規分野である必要はなく、既存の第二次産業の商品で構わない。支出の分野はどうであれ、とにかく支出してもらわねばならない。なのに、消費行動の硬直性があるので、たとえ所得が増えても、支出はあまり増えないのだ。
これを経済学の用語で言うと、次のようになる。
「限界消費性向は、平均消費性向よりも小さい」
例として、モデルを示す。たとえば、給料が 10万円で、平均消費性向が 0.8 だとする。彼は 8 万円を貯蓄し、2万円を貯蓄する。ここで、彼の所得が 1万円増えたとする。このとき、彼の支出は、8千円増えればいいのだが、実際には、限界消費性向が 0.7 なので、7千円しか支出は増えない。……統計的に言えば、だいたい、そのような事実が見て取れる。(もちろん、「宵越しの金は持たない」として、全部使ってしまう人もいるだろう。それは個別の話である。一方、上のモデルで述べたのは、一国全体で見た場合の、マクロ的な話である。)
── ここでは、限界消費性向は、平均消費性向よりも足りない分( 0.1 )だけ、柔軟性が劣っていることになる。
以上の (1) 〜 (4) ように、経済には「硬直性」がある。つまり、経済システム全体が時間的に変化していくなかで、ある部分は、柔軟性を欠いているので、変化に追いつけなくなってしまう。従来の状態のまま、新たな状態には不適応となってしまう。そういう箇所が現れる。
その不適応となった箇所は、経済システム全体のなかで、「歪み」となる。つまり、あるべき状態に移行できないまま、従来の状態にいくらか留まっているので、他の部分と整合しなくなってしまうわけである。たとえば、原子力産業の技術者が余って、リゾート産業の専門家が不足するので、雇用のミスマッチが生じる、というような例だ。そういう「歪み」だ。
そして、この種の「歪み」は、経済システム全体が時間的に変化していくなかで、さまざまな箇所で現れる。換言すれば、柔軟性の不足ゆえに不適合となる箇所があちこちに現れる。
ここまで述べてきたことを、一応、まとめてみよう。「歪み」という言葉を使いながら。
まず、生産性が向上する。それにともなって、労働者は余る。その余った労働者は、どこかで吸収しなくてはならない。しかし、労働力の硬直性があるので、労働者の移転はスムーズには実現されない。うまく移転できなかった労働者は、あぶれて、失業する。これは、生産性の向上にともなう経済システムの変化に、労働の移転が追いつけなかったためだ。このような「歪み」が生じる。
ただし、この「歪み」は、単なる「雇用のミスマッチ」にすぎないので、職業訓練によって解決が可能だとも言える。(ある程度は。)
一方、「雇用のミスマッチ」とは別の歪みもある。「労働力の硬直性」による「歪み」ではなくて、「消費の硬直性」による「歪み」である。── これは、実は、もっと深刻な「歪み」をもたらすのだ。(以下で述べる。)
「消費の硬直性」は、経済に大きな「歪み」をもたらす。そのことを説明しよう。
生産性の向上があると、失業者が発生するので、その失業者を吸収するために、経済全体が拡大しなくてはならない。ここで、供給の方は、生産性の向上によって、拡大できる。問題は、需要である。生産性の向上した分、消費も増大しなくてはならない。しかるに、実際には、「消費の硬直性」ゆえに、人々は消費をあまり増やさない。
具体的な数値を使って例示しよう。国全体で生産性が 2.0% 向上したとする。これにともなって、労働力が 2.0% 余る。この余った分を吸収するためには、経済全体を 2.0% 拡大しなくてはならない。さて、通常の状態では、生産性の向上と実質賃金の向上率は同じである[ともに 2.0% である]と想定できる。( → 理由は第3章[付録4]。そこでは、例として、2.0% でなく、2.5% という数値を用いているが。) ── となると、実質所得も生産性と同じく、 2.0% 上昇するわけだ。
さて、実質所得の上昇した分を、そっくりそのまま支出するならば、経済全体が 2.0% 拡大することになる。こうなると、失業者をすっかり吸収できる。
しかるに、現実には、そうならない。平均消費性向よりも限界消費性向の方が小さいからだ。たとえば、平均消費性向は 0.8 で、限界消費性向は 0.7 だ、というふうに。
そもそも、個人の平均消費性向は、1よりも小さい。(たとえば 0.8 だ。)その小さい分は、貯蓄に回るわけだが、これは企業の投資という形で使われるから、一国全体で見れば、「消費+投資」という形で、所得の分はすべて需要に回される。
ここで、実質所得の上昇を考える。実質所得が 2.0% 上昇するが、ここで支出が 2.0% の 8割(平均消費性向の分)である 1.6% 上昇すれば(つまり限界消費性向が平均消費性向と同じであれば)、消費は 2.0% 上昇することになる。
( ※ 先のモデルで言うと、所得が 10万円から 10.2万円に増えたとする。増えた2千円のうち、消費に 1.6千円回したとする。元の消費は 10万円の8割で8万円だった。8万円に対して、1.6千円増えたわけだから、消費は 2.0% 上昇することになる。貯蓄は 0.4千円増えて、これも2万円から 0.4千円増えたので、貯蓄は 2.0% 上昇することになる。)
というわけで、限界消費性向が平均消費性向と同じならば、経済は、生産性の向上分だけ、拡大することになる。
しかし、実際には、限界消費性向は平均消費性向よりも小さい。すると、どうなるか?
個人の消費は、もともと8万円であったが、それに対して、 1.6千円( 2.0%)増えるべきところ、限界消費性向の低さから、1.4千円( 1.75%)しか増えない。かわりに、貯蓄が 0.4千円でなく、0.6千円増える。
では、それで安定するか? いや、安定しない。個人消費が 2.0% でなく 1.75%しか増えなかったとしたら、投資もまた 1.75% 増えれば十分なのだ。それ以上増えれば、過剰投資になってしまう。(総売上が増えないのに、やたらと投資ばかりしていれば、投資の分を回収できなくなって、赤字になってしまう。)
結局、個人消費が ( 2.0% でなく ) 1.75% しか増えないので、投資もまた 1.75% しか増えない。しかるに貯蓄は 2万円に対して 0.6千円の 3% 増えるわけで、一国全体でも貯蓄は 3% 増える。要するに、貯蓄は3%増えるが、投資は 1.75% しか増えないので、(今までの投資総額の) 1.25% にあたる余剰資金が生じる。これが国全体でだぶつくわけだ。
一方で、経済は、2.0% 成長すべきところ、1.75%しか成長しないから、その差の 0.25%は、供給の過剰となって現れる。(生産性の向上にともなって、供給は拡大しているから。) つまり、この供給の過剰の分が、「生産力の過剰」=「労働力の過剰」となって、失業者が発生する。
── 以上をまとめて言えば、こうなる。
限界消費性向と平均消費性向が同じならば、生産性の向上の分だけ、経済は拡大する。需給ギャップも生じないし、失業も生じない。
しかるに、実際には、限界消費性向は平均消費性向よりも小さい。そうなると、(生産性の向上による)供給の伸びに対して、消費の伸び率が不足する。その分[= 供給の伸びに対して消費の伸び率が不足する分]だけ、消費の不足[= 供給の過剰]が発生する。これは、需給ギャップであり、経済の「歪み」である。(この「歪み」が倒産や失業などの現象となって現れる。)
同時に、消費にも投資にも使われずに余った過剰な資金が、金融市場に滞留する。
( ※ もうちょっとわかりやすい数値で示そう。生産性の向上が 3% だと、供給も 3% 伸びる。ここで、消費も 3% 伸びればいいのだが、実際には、2% しか伸びない。[これが消費の硬直性。] ゆえに、その差の 1% が、需給ギャップとなる。供給が余るので、倒産や失業が発生する。……かくて、生産性の向上する社会では、原理的に、不況の傾向を帯びる。)
以上では、「消費の硬直性によって、消費の伸びが不足するので、経済システムに『歪み』が生じる」というふうに述べた。
実は、これと本質的には同じ意味のことを、ケインズがとっくに主張している。(「貯蓄投資の所得決定理論」。ここでは、言葉は違うが、言っていることは本質的には同じである。ケインズは「生産性の向上」という言葉は使っていないが。)
では、この問題に対して、どう対処するべきか? ケインズは、次のように主張した。
「民間の需要が不足しているのであれば、政府の需要を増やせばよい。そうすれば、総需要は増える。(そうして、経済は拡大した状態で、新たな均衡点を得るはずだ。)」
このケインズの主張に沿って、政府の需要(つまり公共事業)が乱発されるようになったわけだ。
なるほど、ケインズのこの主張は、そう悪い方法ではなかった。今ならともかく、昔なら、社会資本が不足していたのだし、どうせ社会資本が不足しているのであれば、いずれ、税金で整備しなくてはならないわけだから、公共事業を今すぐ増やすというケインズ流の方法も、悪くはなかったのだ。
ところが、それから1世紀近くを経て、いまは社会資本は整備されすぎているほどだ。「公共事業はもう要らない」というのは、今や日本の常識である。つまり、「需要の不足を官需で埋める」というケインズ的な方法は、もはや時代遅れとなり、意義を失ったのである。
いよいよ、ここからが話の佳境である。
実を言うと、ここまでさんざん述べてきたことは、特に筆者の独自の意見だというわけではない。うまくまとめてはいるが、独創的な見解というほどではない。「なあんだ、知っているよ」と思う読者もいるだろう。しかし、ここからあとは違う。気合いを入れて読んでほしい。
ケインズの方法は意義を失った。では、今、どうすればいいか?
その方法は、経済学に求められてきた。しかし経済学は、うまく回答を出すことはできなかった。
かろうじて不完全な形で回答を出した経済学者が一人いる。クルーグマン教授である。ただ、そこでも、完全な回答とはなっていなかった。
そこで、私がここで、回答を示そう。
「生産性の向上にともなって、需要が不足したなら、どうすればいいか?」
その答えは、
「官需を増やすかわりに、民需を増やすこと」
である。つまり、民需が 2.0%伸びるべきところ、1.6%しか伸びていないときに、「 0.4% の分は官需を追加して埋めればいい」というのがケインズであり、「 民需の伸びを 1.6% から 2.0% に上げればいい」というのが私である。
この差は、本質的には、どこにあるか? それは、消費性向というものに対する理解の差だ。
ケインズは、消費性向が変化するとは考えていない。消費性向は一定値を採ると見なしている。私はそうではなく、消費性向は変化する値だと見なしている。そしてまた、人為的に変化させることができると考えている。
となると、問題は、次の問題に移る。
「消費性向が変化するとしたら、どうやって変化させることができるか?」
つまり、
「個人消費をどうやって上げたり下げたりコントロールできるか」
である。
このことが、本論(需要統御理論)の核心である。以下で詳しく述べることになる。
ただ、今のところは、前述の本質を理解しておいてほしい。民需が縮小しているときに、ケインズは「官需で埋める」と考えた。私は「民需が縮小しているなら、民需を拡大して元に戻すのが本筋だ」と考えた。ケインズは、経済が歪んでいるときに、歪んだ分を、他のもので埋め合わせしようとした。私は、経済が歪んでいるときに、歪みそのものを正そうとした。── そういう根本的な差があるわけだ。そして、その理由は何かといえば、ケインズは経済(特に消費性向)を静的なものとしてとらえたのに対し、私は経済(特に消費性向)を動的なものとしてとらえているからだ。
「需要をコントロールするにはどうすればいいか」
を以下では考える。
「需要をコントロールする」というのは、「個人消費をコントロールする」ということであり、それはまた、「消費性向をコントロールする」ということである。── そして、それを実現するにはどうすればいいかを、考えるわけだ。
まず、「需要のコントロール」が必要な理由を述べよう。(すでに述べたことをまとめる形になるが。)
初めに、生産性の向上がある。すると、供給が拡大するので、人員が余剰となり、失業者が発生する。その失業者を吸収するためには、他の産業で雇用するしかない。(産業構造の変化。) しかし、他の産業でも人員が余剰となっているようでは、新たな雇用は生じない。結局、失業者を吸収するには、国全体で見て、新たな雇用が生じることが必要となる。つまり、経済の拡大が必要となる。ところが、消費の硬直性ゆえに、生産性の向上ほどには、需要は(つまり経済は)拡大しない。
かくて、生産性の向上にともなう失業者を、十分に吸収できないので、不況気味となる。そして、いったん不況の傾向を帯びたら、それは経済の「不安定構造」ゆえに、いっそう拡大していく。つまり、スパイラルに乗って拡大する。( → 第3章 ) たとえば、失業者が少し増えるので、需要がその分減り、そのせいでさらに失業者が増え、そのせいでさらに総需要が減り、……というふうに。こうして、初めは小さかった「不況の芽」がどんどん拡大していって、不況はいっそう深刻化していく。
結局、要約すれば、こうだ。「生産性の向上」と「消費の硬直性」ゆえに、「不況の芽」が生じるが、それは「不安定構造」に乗って、スパイラル的に拡大していく。だから、「生産性の向上」と「消費の硬直性」があると、不況は必然的に発生するわけである。
では、どうすればいいか?
「個人消費を拡大すればよい」
というのが、先に述べた結論だった。
なぜか?
まず、「生産性の向上」と「消費の硬直性」のうち、「生産性の向上」を捨てるわけには行かない。
となると、「消費の硬直性」を打破して、需要を拡大しなくてはならない。そのためには、三つの方法がある。個人消費を増やすか、企業の投資を増やすか、官需を増やすかだ。
このうち、官需(公共事業)を増やすというケインズ流の方法は、好ましくない。(このことはすでにあちこちで言い尽くされているだろう。「第3章・後」でも説明した。)
また、企業投資を増やすというやり方は、一時的にはいいが、永続的にやるわけには行かない。需要を大幅に上回る投資を続ければ、設備投資過剰になるものだ。供給過剰になる危険もあるし、そもそも、むやみやたらと設備投資すれば、投資過剰で、コストがかかりすぎて、採算が取れなくなる。 ( → この文書の最後の方の「供給が生み出す需要」の箇所を参照。)
となると、三つのうち、残るは個人消費だけだ。これを増やす以外ない。しかも、それがベストなのだ。なぜなら、そもそも、需要が不足したのは、消費の硬直性によって個人消費が減ったのが原因だからだ。原因が個人消費にあるのだから、対策も個人消費に向けられるべきだ。そうするのが本来のあり方なのだ。(そこを理解しなかった点に、ケインズ流の理由がある。)
── 換言すれば、「生産性の向上にともなって歪んだ経済を、元の形に戻すよう、歪みを取ること」。これが正しいあり方であるわけだ。(歪みを埋めるために別のものを嵌(は)め込む、という方法は取らない。本質的な方法ではないので。)
経済を拡大するには、「総需要」を拡大することが必要であり、そのためには「個人消費」を拡大することが必要である。
実際、そうすれば、うまく行くはずだ。個人消費が拡大すれば、その消費に応じる供給力を整えるために、企業の投資も増える。かくて一国全体の総需要が拡大していく。
結局、景気の拡大のためには、「個人消費の拡大」が最も有効な方法なのである。そのことを理解してほしい。
「そんなこと、いちいち言われなくても、当たり前じゃないか」
と思うかもしれない。しかし、当たり前ではないのだ。むしろ、異端なのだ。実際、2001年ごろのマスコミの景気関連記事を見てほしい。「需要が足りないから、需要を増やすべきだ」と述べている人は、クルーグマン以外にはほとんどいない。現実には個人消費が異常に縮小していることは、誰もが知っているのだが、その対策として、「個人消費を増やせ」と主張している人はほとんどいない。
では、かわりに、どんな意見が溢れているか? 「不況を脱する方法は?」というテーマの記事なら、山のように見出されるから、そこにある提案を見ているがいい。たいていは、次のようなものばかりだ。
こう意見が何度も掲載される。そういうものばかりだ。「個人消費の拡大」という方針の記事が出ることは、まず、ない。当然、そのための処置として、「減税」という意見が出ることは、まず、ない。( 2001年9月現在、私はまだいっぺんも見たことがない。)
では、「減税」というのは、間違った方法なのだろうか? いや、そんなことはない。これは最も正統的な方法なのだ。実際、2001年10月には、米国で、景気後退にともなって、「 600億ドルないし 1000億ドル規模の減税や財政支出」という方針が打ち出された。これと同時に株価もいくらか回復した。そういうふうに、個人消費を直接増やすための「減税」というのは、最も正統的な方法なのだ。なのに、米国ではできることが、日本にはできない。提案さえもされない。 ( → 「ニュースと感想」 10月04日b )
つまり、米国で(というか世界中のどこでも)、「景気対策には個人消費の拡大が大事」という方針が示され、そのために、「減税」などの対策が取られる。ところが、日本では、そういう一番肝心な点がすっぽり抜けているのだ。盲点のように。だからこそ、先の記述において、私はうるさいくらいに、そのことを強調してきたわけだ。
景気の拡大のためには、「個人消費の拡大」が必要である。そう述べた。では、どうやって、それを実現するか?
その具体的な方法を述べるのは、次項からにすることにして、その前にひとつ、重要な点を述べておこう。それは、「理念を示すべきだ」という点だ。
政府が何か特別のことをやるなら、その理念を国民に明らかにするべきだ。これから何をやろうとしており、何をめざすかを。
もちろん、めざすものは「消費の拡大」である。しかし、それは政府の経済運営である。つまり、政府の問題であり、国民自身の問題ではない。国民にとってはどうなのかを、はっきりとわかりやすい形で明示するべきである。
「一国全体における(マクロ的な)消費の拡大」というのは、国民にとっては、何を意味するか? もちろん、それは、「一人一人における(ミクロ的な)消費の拡大」である。もっとわかりやすく言えば、国民の一人一人が消費を拡大しなくてはならない、ということだ。つまり、国民の一人一人に「消費の義務がある」ということだ。
このことを、はっきりと宣言するべきなのだ。
仮に、「消費は義務だ」と宣言しなければ、どうなるか?
「そんなことは余計なおせっかいだ」
というふうに反発ないし拒絶されるだろう。そうして一人一人が消費を拡大しないせいで、国全体で消費が拡大しないままになる。となると、経済は縮小し、歪みが出る。平常ならば不況になるし、不況ならばそこから脱出できなくなる。だから、「消費は絶対に必要なのだ。今よりももっと消費しなくてはならないのだ」と、国民に訴えなくてはならない。特に、2001年ごろのひどいデフレのようなときには、なおさらだ。
「消費は義務だ」と宣言すること。そうして理念を明示すること。それが大切だ。── ただし、たとえ宣言したとしても、それだけで消費が拡大するわけではない。現実にそうなるようにするには、別の方法が必要となる。そのことについては、次項から、本格的に述べる。
さて、いよいよ、「個人消費の拡大」を実現するための、具体的な方法を述べよう。
ここで、注意すべきことがある。われわれの目的とすることは、「個人消費の拡大」だけではないのである。逆に、「個人消費の縮小」をめざすべきであることもある。それは、どういう場合かというと、インフレの場合である。
不況ならば、消費が縮小しているので、消費を拡大するべきだ。逆に、インフレならば、消費が拡大しているので、消費を縮小するべきだ。── このような対称性がある。
これを「需要のコントロール」と称する。つまり、消費を拡大したり縮小したり、自由にコントロールするわけだ。
これこそが、われわれの求めるべきものである。
さて、ここでいきなり新たな方法を提案する前に、これまでの経済学の方法を振り返ってみよう。
従来、経済学では、景気対策としては、次の二つの方法があった。
という二つの方法である。前者はケインズ的で、後者はマネタリズム的である。そして、この二つの方法は、実際に大きな効果を発揮してきた。
その例を見よう。
第一に、財政支出による成功例としては、大恐慌のあとの米国がある。(ケインズ流の「ニューディール政策」は規模が小さすぎて不十分だったが、その後の戦争の発生による膨大な軍事支出はいちじるしい景気回復効果をもった。これは意図しない形の経済運営だったが、とにかくケインズ的な財政支出による成功である。もっとも、これほど膨大な財政支出は、なかなか実行できるものではないが。今の日本で言えば、100兆円〜200兆円規模の軍事支出である。)
第二に、金融操作による成功例としては、石油危機後の狂乱物価のあとの日本がある。(年率 30%を超える強大なインフレがあったが、財政と金融を厳しく引き締めることで、インフレを収束させることができた。やりすぎて不況になったほどだ。「インフレは暴走して制御が不可能になる」という理屈が間違っていることは、このことからも明らかだろう。── このマネタリズム的な方法は、以後、世界各地で成功を収めてきた。)
さて、である。
従来の経済学は、上記の二つの方法をうまく組み合わせることで、かなり成功を収めてきたのであるが、バブル後の日本では、敗北を喫した。不況になったが、ここでは、財政支出も金融操作も無効になってしまったのである。
第一に、財政支出だが、初めは所得税の減税を何回かやったが、効果は少しも現れなかった。課税最低限はどんどん引き上げられた結果、所得税を払わない人々の割合が異常に増えて、税の規律・規範を失わせるほどになった。また、公共投資は、やたらと支出したが、無駄が増えるばかりだった。そのあげく、景気回復の効果はほとんどなく、国に膨大な財政赤字が蓄積するだけだった。さんざん無駄な支出をしたあげく、効果はゼロで、赤字が溜まるだけ。……かくて、ケインズ流の経済学は敗北した。
第二に、金融操作だが、これも無効だった。当初は、金融操作が有効である時期もあったのだが、日銀はぐずぐずと少しずつ小刻みに金利を下げるばかりで、出し惜しみしていた。ケチケチしているうちに、景気はどんどん悪化して、景気の谷底に深く落ちてしまった。やむなくゼロ金利にした。しかし、今ごろそんなことをやっても、もはや時期遅れで、効果が出ない。さらに金利を下げたくても、もはや下げる余地はない。量的緩和をしたくても、ゼロ金利の下では量的緩和は効果がない。(流動性の罠) かくて、ぐずぐずしていたせいで、金融操作の手段もなくなってしまった。お手上げ状態である。
そういうわけだ。かつて輝かしい成功を収めてきた従来の経済学だが、「ゼロ金利」に突入したデフレの日本に対しては、まったく無効になってしまったわけだ。従来の経済学の敗北と言えよう。
( ※ 「ゼロ金利」というのは、人類の歴史上、[実質的に]初めての事態である。こういう未曾有の事態に対して、経済学はなすすべをなくしてしまったわけだ。)
ここで、新たな提案をする人物が現れた。ポール・クルーグマン Paul Krugman である。彼は、日本の不況に対して、その問題点を指摘し、かつ、対策法も示した。
彼の主張によれば、こうである。
日本は「流動性の罠」にはまっている。つまり、名目金利がゼロとなって、さらに下げることができないので、資金の需要と供給の均衡点が得られなくなってきている。そのせいで、資金が正常に流動しない。資金を正常に流動させるには、資金の需要と供給を均衡点に持っていかなくてはならない。現状では、その均衡点は、実質金利がマイナスとなるような領域にある。名目金利はマイナスにならないのに、実質金利をマイナスにするには、「物価上昇」(期待インフレ率)が必要だ。物価上昇があれば、名目金利はゼロでも、実質金利は、物価上昇の分だけ、下がることになるからだ。
例を示そう。たとえば、設備を購入するとする。価格は今なら1億円だが、1年後には(物価上昇率が5%で)5%増しとなる。だから今すぐ買いたい。買う金は借りればよい。普通なら金利を取られるが、今なら金利はゼロだ。結局、今すぐ金を借りて購入することで、1年後に現金で買うのに比べて 5% 得をする。(マイナス5% の実質金利。)
このようにして、物価上昇をもたらすことで、実質金利の引き下げをもたらすことができるので、「流動性の罠」という金融政策のどん詰まり状態から脱出できる、ということを示した。
クルーグマンは同時に、「ベビーシッターモデル」も導入した。ここでは、次のように説明する。
需要は、普通、金利によってコントロールできる。需要が多いときは、借金して消費しようとする人が多いので、金利を適当に上げることで、借金する人の量を減らし、需要を抑制できる。逆に、借金して消費する人が少ないときは、金利を適当に下げて、需要を拡大できる。こうして需要をコントロールできる。
しかし、需要が極端に減ってしまうと、需要をコントロールできなくなる。たとえ金利を最低限度(つまりゼロ)にしても、借金して消費しようとする人はいなくなる。こうなると、誰もが金を手元に貯め込むことばかりに熱中して、それを使おうとしなくなる。貯金ばかりが増えて、消費がなくなる。かくて、経済はどん詰まりになる。(今の日本がそうだ。)
さて、ここで物価上昇を導入したら、どうなるか? たとえば、半年に 5% の物価上昇。半年後には、貯金の実質的な価値が 5% 減ってしまう。それは損だ。というわけで、今のうちに消費しようとする人が出てくる。そうして消費が増える。そして、いったん消費が増えれば、あとはまた金利をコントロールすることで、経済はうまく回転していく。
結局、物価上昇があれば、経済はどん詰まりの状態から抜け出せるわけだ。
クルーグマン説は、理論的には正しい。これは理論的には、間違ってはいない。
ただし、反発は、別のところから生じた。主として、感情的な反発である。次のように。
こういう反発があちこちで生じた。
実際、こういう反発が生じるのは、ある意味で当然だと言えよう。なぜなら、クルーグマンの考え方は、従来の価値観を否定するものだからだ。
「物価の安定こそ大事だ」
というのは、従来の経済学の基本的な考え方だ。だから、いくら景気回復のためとはいえ、これを否定すれば、従来の経済学の基盤を、全面否定することになる。これでは感情的な反発は必至だろう。
では、私はどう考えるか?
この点については、本章の初めで、詳しく述べてきた。
「景気の安定こそ最優先の事柄であり、物価の安定は二の次である」
と。つまり、私は、クルーグマン流の考え方を支持する。支持するだけでなく、その理由を、本章の初めで詳しく説明してきた。読者もまた、支持してくれるだろう。「物価の安定を優先するので、景気がいくら悪化しても構わない」などという考え方は、とうてい認められがたいものだからだ。
( ※ 日銀も、建前ではこういう変な考え方を取っているが、2001年秋になると「不況からの脱出も大事だ」というふうに述べてきている。とはいえ、「物価の安定」をなかなか捨てきれないので、結局は、「景気の回復」をできないでいる。)
( ※ 日銀はともかく、「景気の安定のためであれば、若干の物価上昇を許容する」という考え方は、日本以外の世界各国で受け入れられている。ほぼ常識となっている。それが、0%よりも高い下限をもつ「インフレ目標」政策である。)
というわけで、上の二つの反発のうち、前者(「物価の安定を優先すべきだ」)は、あまり問題とならない。この反発は無視していいだろう。(そのためにこそ、本章の初めでは、長々と説明してきたのだ。)
問題は、後者の反発(「物価上昇による貨幣価値の低下は罰金なのでけしからん」)である。なるほど、これは一見、もっともな反発と見える。
この反発に対して、クルーグマンは何とも述べていない。ま、これは感情的な反発であるから、まともな経済学者としては、「いちいち感情的な反発なんかに関わっていられない」と思ったのかもしれない。たしかに、理論的な経済効果を説明するだけで十分だ、とも言える。経済学的には。
しかし、物価上昇を、政策として実際に実現するとなると、世間の支持を得なくてはならない。だから、世間の心理的な反発も考慮しなくてはならないし、そういう心理的な反発をほぐす必要も出てくるだろう。
以上の点については、次項でも引きつづいて述べる。
クルーグマンの方針は、原理的には正しい。しかしそこには、何かが欠けているのだ。そのため、心理的に不安に感じられ、世間から広く受け入れられずにいるのである。
では、クルーグマン説では、何が欠けているのか?
クルーグマン説は、「こうすればよい」と方法を示した。しかし、その方法に至るための論理過程が、いささか天下り的なのである。「流動性の罠」を脱出するためには、「物価上昇」があればいいのだろう。それはそうなのだろう。しかし、この両者がいきなり結びつけられてしまうのだ。その両者を結びつけるための論理過程がいささか不透明なのである。いきなり結論が出てしまって、「こうすればこうなる」と証明されるわけだが、そこに至る過程が不明瞭なので、なんとなく、すっきりと納得できないのである。(数学で言えば、いきなり定理を示されて、その証明が示されるようなものだ。素人には、ちんぷんかんぷんである。)
人々はこれまで、「物価安定こそ大事」という信念をもってきた。こういう信念をクルーグマンは正面から全否定する。しかし、それならそれで、地面を根底からくつがえすほどの基本的な概念を示してもらいたいのだ。原理を崩すには、別の原理を示してもらいたいのだ。なのに、それがクルーグマン説には欠けている。
人々は不安に思って、こう感じる。
「貨幣価値が低下すれば、自分たちの資産が減る!」
「自分たちの金がなくなる! インフレは泥棒だ!」
「インフレとは、国民の金を政府が収奪することだ!」
こういう不安に対して、クルーグマンはうまく説明してくれない。単に「物価上昇で景気が回復する」と示しているだけだ。だからこそ、人々は、クルーグマン説に、「正しいのだろう」と思っても、「でも……」というふうに躊躇して、拒んでしまうのだ。
人々はさらに別の不安にも駆られる。
「物価上昇があれば、不況から脱出することができるのだろう。しかし、そのあとインフレが暴走してしまうのではないか?」
と。それは経済学的には初歩的な不安なのだが、そうした不安をやわらげるだけの言葉が、クルーグマン説には欠けている。
以上のことをまとめて言えば、クルーグマン説には、「需要のコントロール」という概念がないのである。「需要を増やす」という概念はあるのだが、「需要を時間的に上げたり下げたり、そういうコントロールをする」という概念がないのである。(その証拠が、目標となる物価上昇率が「固定的」であること。)
そこで、「需要のコントロール」という概念のもとで、クルーグマン説を、新たにとらえ直してみることにしよう。そのためには、いったんクルーグマン説を離れて、物事を根本的に考えてみることにする。
物事を初めから根本的に考え直してみよう。
すでに知ったように、総需要が縮小しているときには、需要を増やさなくてはならない。つまり、個人消費を増やさなくてはならない。「消費の義務」を、まさしく実行させなくてはならない。
では、どうやって、個人消費を増やすか? ── この問いは、先ほども示したが、今ここで、その答えを示そう。
ある経済活動を促進する方法は、市場経済の考えに立つ限り、ただ一つである。それは、「アメとムチ」だ。
「アメとムチ」── その例は、至るところにある。以下ではいくつか、例示しよう。
(1) ディーゼル車
ディーゼル車に「アメとムチ」が施されたことがある。かつて石油危機の直後には、ディーゼル車に「アメ」が施された。ディーゼル車の所有税を軽減したり、軽油税を軽減したり。その結果、ディーゼル車は何倍にも増えた。
しかし、ディーゼル車が増えると、それによる被害が激増した。沿線道路の住民が健康を害したり、花粉症がこの時期以降に急激に発生したり。こうした問題が生じたので、今度は「ムチ」が施された。ディーゼル関係の税を上げたりして。その結果、ディーゼル車の増加はいくらか鈍った。(あるいは減少した。)
このように、税を下げたり上げたりという「アメとムチ」により、ディーゼル車の購入を、促進したり抑止したりした。
(2) 促進税制
「促進税制」とされるものがある。「アメ」となる税制だ。「住宅ローン減税」というのは昔からある。最近でも、「株式取引の税を軽減せよ」とか、「土地取引の税を軽減せよ」とかいう声が聞こえる。ここでは、税の軽減という「アメ」によって、その消費を促進しようとするわけだ。
(3) 環境税
「環境税」と呼ばれているものが提案されている。たとえば「炭素税」だ。これは、二酸化炭素の排出量に応じて課税する。こうして「課税」という「ムチ」によって、石油などの消費を低減させようとするわけだ。
以上の (1) 〜 (3) で例示したように、「アメとムチ」という政策がある。減税または補助金という「アメ」によって、消費を増やそうとしたり、「課税強化」による「ムチ」によって、消費を減らそうとする。── こうして、「アメとムチ」によって、消費活動をコントロールしようとするわけだ。
こういう「アメとムチ」は、市場経済のもとでは、当然かつ基本的な方法である。
さて、そこで、である。
ならば、消費活動全般についても、同様のことが適用できるはずだ。── そういう考え方を、ここで導入しよう。これが「需要統御理論」の根幹である。
「需要統御理論」の原理は、こうだ。「消費をする」という経済活動を、促進するために、次のような「アメとムチ」を制度化する。
これが基本的な理念だ。この理念を具体化するには、次のようにする。
つまり、消費が適正な人には何もしない(つまり罰金と補助金の収支がトントンになる)が、消費が不足する人には、不足する分だけ罰金を科し、消費が過剰である人には、過剰である分だけ補助金を出す。そうして、一国全体で総需要を、好ましい方向に向けてコントロールする。
たとえば、一国全体で総需要が縮小しているときは、「アメとムチ」を多大にして、消費活動を強く促進する。一国全体で総需要が拡大しすぎているときは、「アメとムチ」をゼロにして(あるいはマイナスにして)消費活動を抑制する。── こうして、消費活動を最適の値に導く。
このようにして、「アメとムチ」(補助金と罰金)を制度化することで、消費活動を促進したり抑制したりできるはずだ。かくて総需要のコントロールをすることで、景気の上下(不況と好況)をコントロールできるはずだ。── これが、「需要統御理論」の原理である。
「需要統御理論」の原理はわかった。
では、この原理を実施するには、どうしたらいいか? つまり、「アメとムチ」(補助金と罰金)をうまく制度化するには、どうしたらいいか? ── それが問題となる。
ざっと考えたところ、それは不可能と思えるだろう。なぜなら、個別の消費はあまりにも多大で、算定不可能だからだ。1億人以上の国民の個別の消費活動を政府が正確に細くするのは、困難と思える。脱税者などが大量に現れそうだ。
似たものとして、「消費税」というものがある。これも、現状のように「帳簿だけ」だと、脱税やら簡易税制やらで、不公平が多大に発生している。「インボイス」を使う、という方法では、中小企業の手間が大変だ。そもそも、「インボイス」は、店ごとに商品の調査するだけであり、消費者一人一人について調査しているわけではない。なのに、消費者一人一人について調査して課税するなんて、とても不可能に思える。それだけでない。個人の毎日の細々とした消費活動をいちいち調査するのみならず、さらに、その消費を本人の所得と照らしあわせて、不足しているか過剰であるかを、チェックする必要がある。そんなことは、とてもできそうにない。また、コンピュータや通信などを使って、仮にできたとしても、そんな管理社会になるのは、まっぴらだろう。
というわけで、「アメとムチ」を現実に制度化するのは、不可能だと思える。
しかし、である。実際には、この問題は、うまく回避できるのだ。
そのような調査や算定を、いちいちしなくてもいいのだ。かわりに、それと同じ効果を上げる方法があるのだ。どんな? それは、「物価上昇」という方法だ。
実は、「物価上昇」があれば、上記の「アメとムチ」つまり「罰金と補助金」と同じ効果を、うまく上げることができるのだ。
そのことを、以下で説明しよう。
[ ※ ここでは、例で示す。
物価上昇率 = 2%
名目所得上昇率 = 5%
実質所得上昇率 = 3% ( = 5%−2%)
以下では、場合分けして、考えていく。]
(1) 所得と消費が同じ場合
所得と消費が同じ場合には、物価上昇があっても、損得はない。(つまり「アメ」も「ムチ」もかからない。)
たとえば、2%の物価上昇があったとしても、所得の5%増のうちの2%分は、もともと物価上昇に応じた分(「物価上昇手当」のようなもの)である。だから、その2%増えた所得で支払えばいい。得る金も払う金も、2%ずつ上がるだけだ。自動車が1年後に 100万円から 102万円に値上がりするとしても、所得も 1年後に 100万円から 102万円に値上がりするだけだ。結局、損得はない。変わるのは、給料明細書や自動車のレシートなどの数字だけだ。
(2) 所得よりも消費が少ない場合
所得よりも消費が少ない場合には、その不足する分だけ、物価上昇で損をする。
たとえば、手元に 100万円あるとする。それを今すぐ使えば、100万円分のものを買える。しかし、1年後に同じ物を買おうとすると、102万円が必要になる。彼は2万円余計に払わなくてはならない。つまり、消費を1年遅らせたことにより、(物価上昇率にあたる)2%の罰金を払うことになる。
同様にして、100万円あるうち、50万円使って、50万円はタンス預金していたとする。今すぐ消費した 50万円については、損も得もない。タンス預金した 50万円については、1年後には、もはや 49万円の価値しかない。つまり、それだけ罰金を科せられたことになる。この場合、消費しなかった分についてだけ、きっちり2%の罰金を払うことになる。
こういうことが毎年繰り返される。消費をしなかった額について、毎年その物価上昇率の分だけ損をすることになる。1年だけなら2%の損だが、2年なら、 2%+2% で、4% の損をすることになる。何十年もずっと消費をしないでいれば、手持ちの金が半減してしまうかもしれない。
こうして、消費の不足する分についてだけ、きっちり罰金が科せられるわけだ。
(3) 所得よりも消費が多い場合
所得よりも消費が多い場合には、その過剰である分だけ、物価上昇で得をする。
たとえば、手元に 100万円あって、それを今すぐ使えば、100万円分のものを買える。それが普通だ。しかし、過剰消費する人もいる。たとえば、100万円しかないのに、200万円の物を買うわけだ。これは、通常、借金による。銀行からローンを受けるのでもいいし、サラ金から借金するのでもいいし、クレジットで分割払いするのでもいい。とにかく、所得以上に、過剰消費する場合がある。
本来なら、どうするか? 今は 100万円の資金で 100万円消費し、1年後には 102万円の資金で 102万円の消費をすることになる。こうすれば損も得もない。ところが、過剰消費する人は、1年早く消費したため、102万円払うべきところを、100万円払うだけで済んだことになる。つまり、2万円儲けたわけだ。結局、過剰消費した分について、きっちりその分だけ、物価上昇率と同じ補助金を得たのと同じことになる。(クルーグマンの言う「マイナスの実質金利」と同じ。)
ここまでを、要約しよう。
需要のコントロールには、「アメとムチ」(補助金と罰金)を科することで、消費を促進する度合いを変えればよい。この「アメとムチ」としては、「物価上昇」を用いる。物価上昇を大きくすれば、消費の促進が大きくなる。物価上昇を小さくすれば、消費の促進が小さくなる。── こうして、消費を増やしたり減らしたりできるわけだ。つまり、消費をコントロールできるわけだ。
理屈ではわかったはずだ。しかし、理屈ではわかっても、感情的な反発もくるだろう。「物価上昇は損をする」と感じて。
「罰金なんてけしからん。罰金なんてイヤだ!」
「罰金なんて、課税と同じだ」
そこで、「消費の義務」の宣言が大事になるのだ。
国民には、「消費の義務」がある。とすれば、その義務を果たさなかった者には、ペナルティが科せられて当然なのだ。なぜなら、その「義務違反」によって、社会に有害なことをなしているからだ。そして、「有害な行為を抑制するために、罰金を科する」というのは、当然のことなのだ。犯罪を刑罰で抑制するというのと、同じである。
「別に悪いことをしたわけでもないのに、犯罪者扱いしないでくれ」
という文句も出そうだ。しかし、それは勘違いというものである。消費不足の人は、実は、しらずしらず、社会に有害なことをなしていることになる。つまり、「不況を起こす」ということを。── このような有害なことをなせば、それに対して罰金を科せられるのは仕方ない。たとえば、信号無視をしたり、立ち小便をしたり、公共物を破壊したり、毒物を振りまいたり、排気ガスを空気中にばらまいたり、……そういうふうに、社会悪を行なえば、罰金を科せられる。とすれば、「不況を起こす」という社会悪を行なえば、罰金を科せられるのは当然なのだ。
生産性の向上する社会では、所得が増えたのに応じて、支出を増やすことが消費者の義務である。この「消費の義務」を果たさなければ、ペナルティが科せられるのはやむを得ないのだ。
そう説明しても、まだ反発が来るだろう。
「社会にとって有害だとしても、それでも自分は損したくない。社会のことなんか、知ったこっちゃない。自分は損したくないのだ。とにかく、自分の金を奪われたくない!」
というふうに。これは一種のエゴイズムだが、別に、不自然ではない。そもそも、資本主義とか自由経済というものは、個人のエゴイズムを前提として成り立っているのだから、こういう意見が現れるのもごく自然だろう。
しかし、この反発に対しても、うまく答えることができる。別にあなたは損しないのだ。
第一に、「アメとムチ」は、全体としては、「ムチ」が多くなるわけではない。物価上昇があったとしても、そのこと自体が国庫収入をもたらすわけではない。つまり、物価上昇は増税の効果をもたない。「物価上昇は増税と同じだ」というようなことはないのだ。たしかに、物価上昇で損する人もいるが、得する人もいる。国民全体で見れば、損と得はトントンであり、別に国民がみんな損するわけではない。
第二に、誰が損して誰が得するかが問題だが、それは、国民一人一人が自分で決めることができる。「自分は得したい」と思った人が得をして、「自分は損したい」と思った人が損をする。損をするか得をするかは、自分自身で決めることができるのだ。では、なぜ? それは、こうだ。── 物価上昇とは、「多く消費した人が得をして、少なく消費した人が損をする」というシステムだ。だから、得をしたければ、消費すればよい。損をしたければ、消費しないでいればよい。それだけのことだ。── 結局、このようにして、各人が自分の行動を決定することで、一国全体の消費行動を方向付けようというのが、「需要統御理論」の根幹である。
なお、心配性の人は、次のように危惧するかもしれない。
「国民がみんな得をしたがったらどうなるのか? 損をする人が少なくて、得をする人が多くなって、アンバランスになったら、困るのではないか?」
と。しかし、ご安心。
みんなが得をしたがったら、そのインセンティブ(得をする分)の額を減らせばよいのだ。一人一人の「得」を小さくすればいいのだ。具体的には、こうだ。みんなが得をしたがるというのは、みんなが消費をしたがるということだ。こうなると、一国全体の消費は非常に増える。つまり、好況となる。好況ならば、景気を冷やす必要が出る。そのために、物価を下げる措置を取ればよい。(金融の引き締めや増税。) で、そうすると、物価上昇率が下がる。物価上昇率が下がれば、消費することの「得」は小さくなる。だから人々は消費したがらなくなる。……というわけだ。結局、「みんなが得をしたがる状況になったら、みんなが得をしたがらない状況に変える」(物価上昇率が高い状況になったら、物価上昇率が低い状況に変える)というふうにするわけだ。かくて、経済をうまく安定させる方向に導くことができる。
ついでに言おう。さらに、次のような反発が来るかもしれない。
「物価上昇は貨幣価値の下落だ! けしからん!」
と。しかし、これは、根本的な解釈ミスである。需要統御理論では、別に失敗して、貨幣価値の下落が起こったわけではない。あえてそれを狙っているのだ。わざとそうなるようにしているのだ。そうすれば、メリットがデメリットを上回るからだ。
物価上昇(貨幣価値の下落)は、メリットもあるし、デメリットもある。それは「物価の安定」とは裏返しの関係にある。しかし、「物価の安定」よりも、「景気の安定」を、優先しよう、と決めたのだ。それが最初に述べたことだ。
貨幣価値の下落は、たしかに、痛みである。しかし、その痛みを耐えることで、景気の安定を得るのだ。注射の痛みを耐えて、病気を治すのに似ている。この痛みを耐えるのが嫌なのであれば、景気の安定を捨てるしかない。
需要統御理論の原理を、ここに簡単に掲げよう。
このようにして、消費活動を促進するわけだ。(消費の硬直性への対処。)
そして、この「アメとムチ」の量(物価上昇率)を、適当に変化させることで、需要をコントロールし、景気を安定させるわけだ。
さて、この考え方を、クルーグマン説と比較してみよう。
ただちにわかるとおり、クルーグマン説は、需要統御理論の原理に、すっぽり含まれている。
かくて、クルーグマン説の二つの核心は、需要統御理論に含まれているわけだ。つまり、
クルーグマン説の二つの核心 ⊂ 需要統御理論
となる。
これはどういうことかと言うと、
「需要統御理論は、クルーグマン説の拡張である」
ということだ。そういう位置づけを、理解しておくといいだろう。
「需要をコントロールするためには、物価上昇を用いる」ということを、すでに述べてきた。次の問題は、
「では、どのように物価上昇率を定めるか」
ということだ。
つまり、ここまでは定性的に述べてきたが、このあとは、定量的なことを述べるわけだ。
もちろん、原則としては、物価上昇率を高めることで、消費を促進する力を強めることができるし、物価上昇率を低めることで、消費を促進する力を弱めることができる。問題は、どのような値が好ましいか、ということだ。
「最適な物価上昇率」というものは、あるだろうか? あるとすれば、どのくらいだろうか?
これについて、私の意見を述べる前に、従来の考え方を見てみよう。
(1) 従来型の「インフレ目標」
先進国各国で「インフレ目標」というものが設定されている。実際の値を見ると、「1%〜3%」とか、「2%〜4%」とか、「 2.5% プラスマイナス 1%の範囲」とか、そんなふうな値だ。
で、これらにどれだけの根拠があるかというと、別に、厳密な根拠があるわけではなくて、だいたい経験的にヤマカンで決められているようだ。
実際には、「物価が上昇したら金融を引き締める」という形でのみ制御されるようだ。「物価上昇率が0%ぐらいにまで下がる」ということは、現実には、ほとんどないようだ。
(2) クルーグマンの「インフレ目標」
上の (1) では、物価上昇率を一定の範囲内に収めようとするものだ。この範囲を逸脱して、低くしすぎたり、高くしすぎたりしないように、と。つまり、物価上昇率を安定させることが目的となる。
一方、それとは性質が違って、クルーグマン説の「インフレ目標」という考え方がある。これも、第一の考え方の拡張である。(1) は高まったときに下げることを目的としているが、(2) は下がったときに上げることを目的としている。
この差を大きくとらえて、「全然別のことだ」「正反対のことだ」と反発する人もいるが、別に、正反対ではない。ともに「物価の安定」をめざしているだけだ。正反対なのは、理論ではなくて、現実の方である。理論は真ん中をめざしているのだが、現実は、上過ぎ(世界各国)だったり、下過ぎ(日本)だったり、両方に別れる。それだけのことだ。── 自動車の運転で言えば、右に寄りすぎたら真ん中に戻ればいい、左に寄りすぎたら真ん中に戻ればいい。どちらも、本質は同じことだ。
さて、それで、クルーグマンは、どのくらいの値を示したか?
実を言うと、クルーグマンは、「最適の物価上昇率がどのくらいかはまだよくわからない。研究課題だ」と言明している。ただし、「いったん不況になったら、高めにするべきだ。さもないと、戻れない」と強調している。
実際にはどのくらいの値を呈示しているか? 当初は、不況になった日本への処方として、「4%を15年間」という値を示した。しかし、これが「高すぎる」「インフレの暴走がある」と批判されると、過激さの矛を収めて、より受け入れやすい穏やかな(妥協的な)値として、「(最低でも) 2.5%を数年間」と提案した。
いずれも、数年以上に渡って、同じ物価上昇率を取る。
さて、ここで、私の説を述べよう。
先進国各国の場合は、ヤマカンで決めた目標値である。一種の指針である。初めからこのような指針を採って、インフレもデフレも防いでいるのであれば、問題はない。大きく逸脱するようなことは、まずないだろうし、ヤマカンで決めたところで、そう大きな問題とはなるまい。
クルーグマン説の場合は、どうか? 彼の場合、物価上昇率は、「期待インフレ率」であった。これはつまり、名目金利から実質金利を導き出すための値である。これを増やすことで、実質金利を下げようとしたわけだ。
この「期待インフレ率」は、銀行などの予測する値だ。プロのエコノミストの決める一種の心理的・仮想的な値である。
需要統御理論では、以上とは異なる。
需要統御理論の考え方では、物価上昇率は、「アメとムチ」である。つまり、まさしく現実の力をもち、その力が国民全体に作用する。
これは、従来の経済学にはない、独自の考え方である。そして、この独自の考え方は、独自の結論をもたらす。
物価上昇率が、「アメとムチ」として現実の力をもつのであれば、その力の大きさは、状況に応じて変えるべきである。大きな力を必要とされているときには大きくするべきだし、小さな力を必要とされているときには小さくするべきだ。
つまり、物価上昇率は、一定の値ではなくて、状況に応じて可変化するべきなのである。(換言すれば、「理想の物価上昇率」という唯一の値は存在しない。)
具体的に言えば、不況がひどいときには、物価上昇率は高めにするべきだ。
一方、世間には、逆の意見がある。
「物価上昇率を高めにするのはイヤだ。それだと副作用が出る。たとえ『インフレ目標』を採用にするにしても、2%程度のなだらかな物価上昇率がいい。」
というふうに。
なるほど、その気持ちはわからなくもない。たしかに、物価上昇率を5%とか6%のように高めに設定すれば、その分、副作用が出るだろう。しかし、副作用が強く出るかわりに、効果も強く出るのである。
逆に言えば、物価上昇率を低めにすれば、副作用が小さくなるかわり、効果もまた小さくなる。
現実の日本に即して言えば、次の三つの選択肢がある。
というわけで、「不況からの回復」という過程では、高めの物価上昇率が好ましい。
不況のときに、高めの物価上昇率に設定するとして、では、そのあとは、どう設定するべきか?
これについての答えは、「状況しだい」である。つまり、そのときの状況しだいでいろいろと判断して、最適な設定をする。(状況を無視して「これこれの値」というふうに決めることはない。)
つまり、まだ不況からなかなか脱出しないようであれば、高めの物価上昇率(5%程度)を継続する。もはや不況から脱したのであれば、普通の物価上昇率(2〜4%)に下げる。そのあと景気が過熱気味になれば、金融引き締めや増税で、低めの物価上昇率(1%〜2%)にする。何らかの原因で異常に過度の景気過熱が生じたら、一時的に物価上昇率を 0% にする必要もあるかもしれない。
このような可変的な操作は、実は、金利の操作と同様である。景気が過熱したら、金利を上げる。景気が冷えたら、金利を下げる。── そういう操作と同様の方法で(同様の基準で)、物価の上げ下げを決めればよい。(金利と物価上昇率との関連については、後述。)
なお、
「上げたり下げたりするくらいなら、最初から適当な中間の値にすればいいではないか」
という意見が出るかもしれない。しかし、そうではないのだ。
第一に、先にも述べたように、速度の問題がある。不況から脱出するのに、ダラダラと何年もかけていては、デメリットが強くなりすぎる。最初は高めの物価上昇率で、さっさと不況から脱出するべきなのだ。
第二に、勢いの問題がある。不況から平常に戻るとき、なだらかに戻るよりは、いったん少しインフレ気味にまで行って、それから元に戻す方がいいのだ。(このことについては、「補足」で後述する。)
具体的な予想値を言おう。5年程度の期間で、各年の物価上昇率の目標値は、次のようになる。
需要統御理論では、不況から脱するとき、最初の1年はかなり高め(5%程度)の物価上昇率が好ましい。その後、景気が回復するにしたがって、物価上昇率をだんだん低く設定していく。たとえば、5年間で、次のようになる。(%)
「5・4・3・2・2」
つまり、1年目は 5%、次に景気がいくらか回復してきたら 4%、ほぼ平常になったら 3%、景気が過熱してきたら 2%、……というふうに。
一方、クルーグマン説では、ずっと同じ値であるから、たとえば、5年間で、次のようになる。(%)
「4・4・4・4・4」
つまり、毎年 4% ずつの物価上昇率である。もしこれが高すぎる値だと思うなら、次のようにしてもよい。
「3・3・3・3・3」
つまり、毎年 3% ずつの物価上昇率である。
毎年4%程度だと、初めのころは景気は良く回復するが、5年目のころでは景気が過熱気味になりそうだ。
毎年3%程度だと、景気が過熱気味になることはないだろうが、不況から脱するのに時間がかかりそうだ。この数字だと、ひょっとしたら、5年たってもまだ不況から脱しきれず、失業率は高率のままであるかもしれない。
というわけで、設定する物価上昇率は、可変的であることが好ましいわけだ。
ただし、「可変的にする」とはいっても、むやみやたらと上下させるわけではない。単に「一定の値にする」という枠をはずすだけだ。そして、枠を逃れて自由に設定できるようになったところで、(景気の現況に応じて)最適の物価上昇率を決定するわけだ。
その決定された値が、「毎年同じ値」となることも考えられる。それはそれで、別に問題はない。実を言えば、そうなることが最も好ましい。それは常に景気が安定していることを意味するからだ。
とはいえ、現実には、外部からの攪乱要因などで、景気は不安定になるだろう。そうなったら、景気を元の状態に戻すために、あえて一定の値にこだわることをしない。「一定の値」という枠をはずす。そうして、政策決定の自由度を高めることで、最適の値に決める。── それが需要統御理論の立場である。
上記の例では、期間を5年間に設定した。一方、クルーグマンは「4%を 15年間」というふうに提案したこともある。では、実際には、期間はどのくらいにするべきだろうか?
別の言い方もできる。設定することは、いくらでも任意の期間を設定できるわけだが、その設定が信じられるのは、どのくらいだろうか?
ここで肝心なのは、「率は現況に応じて設定される」ということだ。高くするべき現況のときは高くするし、低くするべき現況のときは低くする。
問題は、その現況とはどのようなものかが、予測できないことだ。
われわれは神ではない。予言者でもない。的中率 100%で予言することはできない。あくまで、(主観的に)推測するだけだ。そして、その推測は、はずれることもある。はずれること自体も問題だが、それにも増して問題なのは、はずれることが衆知であるため、予言しても信じられなくなることだ。かくて、現況の予測が信じられないゆえに、「現況に応じて設定される率」もまた信じられなくなる。(短い間だけならともかく。)
というわけで、むやみやたらと長い期間を設定しても、無意味となる。100年後の物価上昇率を、今のわれわれが設定しても、そんなことはまったく無意味だ。その間に何がどうなっているかわからないし、未来の人間がそんなものに従うとも思えない。たとえば、2001年の日本の物価上昇率として、「これこれの値」と 100年前の人間が指定しても、そんなものに現代の人間が従うはずがない。
率を設定するのはいいが、それには有効期限があるのだ、と考えるとよい。
では、その有効期限は? それは、たぶん、われわれの未来予測能力の期間と同じくらいだろう。たとえば、1カ月後の日本経済についてなら、だいたい予測がつく。さして大きくはずれることもあるまい。半年後なら、まあ、1割か2割ぐらいの誤差で当たるだろう。1年後だと、おおざっぱにしか予測は当たるまい。2年目ぐらいが限度だろう。3年も先となると、もう、ほとんどわからなくなる。総理が誰になっているかもわからないし、そのときの政府の経済方針がどうなっているかもわからない。( 2001年に対して3年後であれば、小泉の方針が継続されて、日本は恐慌のどん底に陥っているかもしれない。小泉は退陣して、景気拡大が実行されているかもしれない。あるいは、何らかの特別な幸運が働いて、自然治癒の力が働いて、景気はひとりでに回復しているかもしれない。あるいは、いったん回復したあとで、日銀がまた金融を引き締めてふたたびデフレに突入しているかもしれない。)
となると、未来の経済に対する人間の予測がある程度は信頼されるのは、1〜2年程度と見なしてよさそうだ。
そこで、「物価上昇の目標値」も、1〜2年程度だけ設定すればよさそうだ。
そして、この1〜2年程度の期間だけは、その目標値にしたがって経済政策を採ることをアナウンスする。
それより先(2〜3年先)については、アナウンスしても、あまり信用されないだろう。そこで、そのころについては、目標値を設定するよりは、ただの「見通し」ないし「予測設定値」だけを公表すればいいだろう。── もちろん、この値が実行される保証は、あまりない。あと1〜2年ほどたったら、そのときになって、あらためて目標値を設定すればいいだろう。
「有効期限が 1〜2年だけ」というのは、明らかに、クルーグマン説とは異なる。クルーグマン説では、もっと長期に渡って、目標となる数値を定めるからだ。
ただし、である。もしこのように、「有効期限が 1〜2年だけ」となったなら、その場合、需要統御理論とクルーグマン説は、あまり変わらないことになる。なぜなら、「この先1〜2年だけ」であれば、需要統御理論でも、クルーグマン説でも、「5・4」とか「4・4」とかの高めの値を取るので、両者の差はあまりないことになるからだ。
(それより先の値では、差が出るが、先の方は、有効期限が切れているのだから、そのころの値はさして意味がないことになる。結局、両者の差は、あまりないことになる。)
ここまで述べたことを、要約すると、次の通り。
需要統御理論の基本は、すでに述べた。次に、基本編から先へ進んで、応用編に進もう。それは、金利との関連である。(ここまでは、金利については、特に述べなかったが。)
需要統御理論では、「アメとムチ」で消費を促進する。消費が過小な人には罰金を科し、消費が過大な人には補助金を出す。その「アメとムチ」とは、「物価上昇」である。── では、ここでは、金利はどんな位置づけを与えられるか?
この問題は、「預金」という経済活動をどう評価するか、ということにつながる。
普通の預金と比較すべきものは、「タンス預金」だ。「タンス預金」は、普通の預金とは異なる。どう異なるか? 「金利が付かない」というのが一般の実感だろう。しかし、もっと本質的に考えよう。
「タンス預金」の本質は、「金を眠らせている」ということだ。そして、「タンス預金」では金利を得られないということは、「金を眠らせる」ということが、物価上昇のもとでは「罰金」を科せられることを意味する。── だから、人々は、罰金を科せられないように、タンス預金ではなくて、銀行預金をする。
つまり、物価上昇は、人々に対して、「タンス預金」ではなくて、普通の預金をするように、促進する効果をもつ。(その罰金を通じて)
では、なぜ? なぜ、そんな促進をする必要があるのか? なぜ罰金を科してまで、人々の行動を一定方向に導かなくてはならないのか? (国のおせっかいないし出しゃばりにも感じられるだろう。)
その理由は、こうだ。預金は、「企業が投資する」という形を取ることで、「個人が消費する」ことの代替となるからだ。
すでに述べたように、人々には「消費の義務」がある。(消費の硬直性ゆえに、経済は放置すれば縮小するので、消費を拡大しなくてはならない。) ただし、いくら義務があるとしても、どうしてもすぐには消費したくないこともあるだろう。そこで、消費活動を、自分自身でするかわりに、他人に(一時的に)代替してもらうことが可能だ。それが「預金」という制度だ。
タンス預金をすれば、「金を眠らせる」ことになる。それは消費を縮小させることになる。これは一国経済に不況をもたらすという効果をもたらすので社会的に有害である。そこで、物価上昇という形で、タンス預金には、罰金を科する。
ただし、タンス預金しないで、銀行預金をすれば、「金を眠らせる」ことにはならない。その金の消費を、自分でなく、他人に代替してもらうことができるからだ。具体的には、個人が銀行預金して、企業が投資に使うことになる。この場合、個人は需要を増やさなくても、企業が需要を増やすことになる。となると、一国経済全体で見れば、個人が需要を増やすかわりに、企業が需要を増やすだけで、需要の総額は同じだから、経済は同等に成長することになる。だから社会に対して有害ではない。有害ではないから、罰金を科する必要はない。というわけで、「金利」という形で、物価上昇の分の「罰金」を補償するわけだ。
── 需要統御理論のもとでは、金利には、このような位置づけが与えられる。
さて、上記の説では、金利は、物価上昇に対する「補償」である。だから、原則として、金利は、物価上昇率と同じだけとなればよい。(実質利率が 0% )
しかし、現実には、金利が決まるには、他の要因も働く。それは、資金需要の強弱である。
企業の資金需要が、個人の預金意欲とぴったり同じであれば、問題はない。金利は物価上昇率と同じ値となるはずだ。そのまま安定するはずだ。しかし、現実には、そうはならない。この両者のうち、どちらかが多くなる。次のように。
(1) 企業の資金需要 < 個人の消費意欲
個人の消費意欲の方が強い状態がある。つまり、消費性向が大きい状態がある。(たとえば好況時の米国。)
ここでは、個人の消費意欲は強く、預金意欲は少ない。一方、個人消費が盛んなので、企業の投資意欲は高い。となると両者で、資金の引っ張り合いが起きる。足りない資金をめぐって、「こっちに寄越せ」「いや、こっちに寄越せ」というふうに、金の取り合いになる。こうなると、競りで値が上がるのと同じで、金利は高めとなる。(「需要が多ければ価格は上がる」という「需要−供給 曲線」で理解してもよい。)
(2) 企業の資金需要 > 個人の消費意欲
個人の消費意欲の方が弱い状態がある。つまり、消費性向が小さい状態がある。(たとえば不況時の日本。)
ここでは、個人の消費意欲は弱く、預金意欲は大きい。一方、個人消費が少ないので、企業の投資意欲は低い。となると、個人はどんどん貯蓄しても、企業がそれを使わないので、金が余る。その余った資金をめぐって、両者で押しつけあいが起こる。「預かってよ」「やだね、邪魔だ」というふうに、資金の押しつけあいが起こる。こうなると、競りで値が下がるのと同じで、金利は低めになる。(「需要が少なければ価格は下がる」という「需要−供給 曲線」で理解してもよい。) かくて、金利は下がり、ひどければゼロ金利となったり、マイナスの実質金利となる。
結局、金利の実際の値は、需給によって動く。この点は、需要統御理論も、従来の経済学も、何ら違いはない。
ただ、解釈が異なる。需要統御理論では、次のようになる。
「金利とは、物価上昇に対する補償だ」
「金利とは、まるまるの利益ではなくて、そのうち、物価上昇率の分は、消費をしないことへの罰金だ」(余りがあれば、余った分だけが利益だ)
この意味で、「金利とは不労所得だ」という従来型の解釈とは異なる。
金利が物価上昇率を上回るようであれば、余りが出る。その分が、預金者にとっては利益となる。借り手にとっては損となる。── これが「実質金利」だ。
実質金利がどのくらいになるかは、資金需要によって決まる。資金需要が高ければ、実質金利は高めになるし、逆に、資金需要が低ければ、実質金利は低めになる。
これは市場によって決まる値だが、その値がそうなるのには、ちゃんとわけがあるわけだから、これを「良い」とか「悪い」とか行っても仕方ない。
にもかかわらず、文句を言う人もいる。
「預金金利が物価上昇率を下回るのはけしからん」
「そうなったら、個人から企業へ所得が移ることになる。けしからん」
「だから、金利を上げるか、物価上昇率を下げるか、どっちかにせよ」
というふうに。(従来型の経済学を知っている人ほど、そういうふうに怒るものだ。)
しかし、需要統御理論によれば、そうなるのは仕方のないことなのだ。そういう状態になるとしたら、それは、個人も消費しないし、企業も投資しない状態であるからだ。だから、そういう社会的に有害な行動を取る人には、罰金が科せられても当然なのだ。
罰金を科せられる(物価上昇で損をする)のは嫌だ、と誰もが思うだろう。だから、罰金を科せられないように、個人は行動するようになる。つまり、物価上昇のもとで、金利が低ければ、人々は損をしないように、貯蓄をやめる。つまり、消費する。そのようにして総需要を拡大する。そして、そうなれば、「個人も消費しないし、企業も投資しない状態」から、脱することができる。
そういうことだ。物価上昇には、そういうふうに、「罰金を通じて、経済体質の変化」を促す効果があるわけだ。── そのことを、需要統御理論は示している。
ついでに言えば、「物価上昇」は「アメとムチ」の両方の効果があるから、「罰金」だけでなく、「補助金」の効果もある。実質金利がマイナスになれば、預金者に「罰金」が科せられるが、同時に、投資者には「補助金」が与えられる。
金利は市場によって決まる、とすでに述べた。これは原則である。
ただ、ここで、人為的な操作を加えることもできる。それは、中央銀行による金利操作だ。中央銀行は、人為的に金利を上げたり下げたりできるのだ。
( ※ これはなぜかと言えば、中央銀行はお札を印刷できるからだ。お札の量を増やしたり減らしたりすることで、お金の供給量を上下させることができて、そうして供給の側を上下させることを通じて、資金の需要に対する過不足を調節できる。かくて、金利を上げたり下げたりできるわけだ。通常、公定歩合などメドにして、資金の供給量を変え、そのことで、市場金利を目標となる値に誘導する。一部の人は、「中央銀行が命令するから、号令一下、それに皆が従う」と思っているようだが、それは誤解。)
さて、このようにして、中央銀行は金利を自由に上下させることができるわけだが、そのことによって中央銀行は景気を調節する力をもつ、と考えられている。(たとえば、景気が冷えたときは、金利を下げて景気を刺激する。景気が過熱したときは、金利を上げて景気を冷ます。そうして景気を調節できる、と。)
なるほど、それはそうだ。ただ、この考えには重要な点が抜けている。それは、物価上昇率との関係だ。(需要統御理論の考えによる。)
従来の経済学では、名目金利だけが重要だと考えられてきた。「名目金利を上げれば景気は悪くなる」「名目金利を下げれば景気は良くなる」というふうに。だから、「日銀の金利水準の変化」などを表やグラフで考えるときも、名目金利だけに着目してきた。実質金利を考えるときも、いかにも「ついでに」という形で追加するだけだった。(実質金利は、「名目金利と物価上昇率から算定する」という仕方で計算しないと出てこないから、面倒なのだろう。たいていは、その面倒な手間を省いて、表示することも省いた。)
しかし、需要統御理論では、そうではない。意味をもつのは、実質金利だけであり、名目金利などはどうでもいいのだ。なぜなら、実質金利の上下だけが、景気に対する効果(需要を上下させる効果)をもつからだ。
たとえば、物価上昇率が 2% のとき、名目金利を 3% から 2% に下げることで、実質金利を 0% にできる。あるいは、さらに金利を下げて、実質金利をマイナスの値にできる。そうして、実質金利による「アメとムチ」の効果によって、投資を促進し、貯蓄を抑制する。
結局、(名目金利というよりは)「実質金利」を上下させることによって、需要をコントロールすることができるわけだ。逆に言えば、需要をコントロールするために、実質金利を上下させるわけだ。
需要をコントロールするためには、実質金利(名目金利と物価上昇率との関係)が重要となる。
問題は、それを決めるにはどうするか、だ。名目金利を決めるのは簡単だが、実質金利を決めるのは簡単ではない。名目金利は(前述のように)中央銀行の人為的な操作で決められるが、物価上昇率は中央銀行の人為的な操作では直接的に決められるわけではないからだ。
特に問題なのが、名目金利と物価上昇率とが、複雑な相互関係を持つ、という点だ。名目金利を変えれば、その影響で、物価上昇率がなだらかに変わっていく。すると実質金利もなだらかに変わっていくのだ。
たとえば、物価上昇率が 5% のとき、名目金利を「 5% → 7% 」 というふうに変化させたとする。すると実質金利は 0% (= 5%−5%)から 2% (= 7%−5%)に変化する。そして、この実質金利の引き上げ効果で、景気は冷えるから、物価上昇率が「 5% → 3% 」 というふうに変化する。そこで実質金利もまた、2% (= 7%−5%)から 4% (= 7%−3%)に変化する。この実質金利の引き上げ効果がさらに景気を冷やすので、さらに物価は下落し、そのせいでさらに実質金利が引き上げられ、……というふうに、スパイラルが生じる。かくて、その間、名目金利は全然いじっていないのに、実質金利はどんどん上昇し、景気はどんどん冷えていく。
というわけで、名目金利と物価上昇率は、相互に複雑な関係を持つので、実質金利をうまく操作しようとしても、なかなか容易ではないのだ。
特に、この操作を、何らかの理論またはモデルによって、一定の方程式などで示そうとしても、事態はあまりにも複雑すぎて、まず無理だろう。
では、どうするか? 話は簡単だ。その場その場の状況に応じて、算定式などには頼らずに、適切に名目金利を上げたり下げたりすればよい。(つまり、普通の金利政策と同様にすればよい。)
ここでは、「景気を冷やすか刺激するか」、つまり、金利を「どのくらい上げるか、どのくらい下げるか」だけが問題となる。金利の具体的な数値(絶対値)は必要ない。「今は景気が過熱気味だから、少し金利を上げよう」というふうに判断すればいいのであって、「現状はインフレの度合いがこれこれだから、最適な物価上昇率はこれこれだ」などと判断する必要はない。
そして、このような金利の上げ下げを、短期的に何度も繰り返すことで、最適の値を取るようにするわけだ。つまり、理論から最適の値を得るわけではなくて、現実において「現状を認識しながら、微修正を何度も繰り返す」ことで、最適な値を取るようにするわけだ。(数学的に言えば、「サイバネティックス」とか「フィードバック」とかの言葉で説明できる方法。)
問題は、「どのような場合に、上げ下げをどう判断するか」だが、これは、各国の中央銀行が一生懸命考えていることだ。複雑な条件から経験的に決まるものである。理論的に「はいこうです」と簡単に示せるようなものではない。だから、ここでは理論として示すことはできない。 (そのような理論は、「まだわからない」のではなくて、本質的に存在しえないのだ。変数が多すぎるゆえに。)
「理想のナイフの設計図を教えてください」と言われてもどうしようもないが、それと同じで、「理想の金融政策の手順を押してください」言われてもどうしようもない。それは経済学や需要統御理論の扱う範囲外にあるのだ。(それを書くのはSF小説作家のやることである。)
ただ、「こうせよ」と具体的な個別な方法は示さないが、その場その場に適用できる一般的な原理[前述のような]はあり、その原理に従えば最適な操作法ができるのだ、ということを、需要統御理論は示している。 ( → 「ニュースと感想」 10月17日b )
需要統御理論の根幹については、すでに述べた。つまり、「金利」と「物価上昇」を上下させることによる需要のコントロールである。
あとは、それら以外のことを述べよう。
通常なら、金融操作だけで、「金利」と「物価上昇」の双方をコントロールできる。(すでに述べた方法で。)
しかし、例外的に、それができなくなることがある。それは、不況になって、「流動性の罠」に陥ったときだ。
ここから抜け出すためには、金融操作だけでは駄目なので、金融操作以外のものが必要となる。では、それは、何か?
それは、もちろん、金融操作以外のものであり、財政支出によるものだ。具体的には、官需でなく民需をもたらすものだ。公共事業ではなく、国民の財布を豊かにするものだ。── それはつまり、「減税」あるいは「中和政策」だ。 ( → 第3章 「中和政策」)
これによって、物価上昇をもたらすための「最初の一撃」を与える。そして、いったん物価上昇がもたらされたら、あとは金融操作で、元のように需要のコントロールができるわけだ。
かくて、「最初の一撃」が必要となる。
ここで大事なのは、その規模だ。あまり小さいと、効果が出ないで消えてしまう。具体的に例示すると、1999年ごろ、「商品券」(地域振興券?)が配られた。この規模は、7000億円程度。配布先は、全国民ではなく、子持ちなどの一部家庭のみ。
この効果は、ほとんど現れなかった。たいていの人が、買物の際に現金のかわりに使っただけで、消費を増大させる効果は少なかったようだ。
よく考えれば、少しは消費を増大させる効果はあったと思う。しかし、たとえ半額ほどの 3000億円の支出増大効果があったとしても、そんなものはたかが知れている。日本の国民総生産は 500兆円程度。消費性向の低下にともなう消費の減少は 1割ほどで、50兆円程度。諸条件などを厳しく見積もっても、 30兆円程度。これだけのマイナス効果がある。そこに 3000億円のプラス効果があっても、たったの 1%だ。こんな程度では、景気回復の効果は、「まったくない」と言っていいだろう。(統計誤差の範囲内だ。)
結局、「最初の一撃」は、実行するにしても、かなり大きな金額にする必要がある。減少した消費の 30兆円[以上]の分をまるまる補う必要はないとしても、そのきっかけとなるほどの、十分な額が必要だ。3兆円程度では不足で、最低でも6兆円程度は必要だと思える。これは、一人あたりに換算して、5万円。この金額を今すぐばらまけば、そこそこの効果は出るだろう。
ただ、橋本内閣のときに増税した分は、消費税の増税や社会保障費の増額などで、一人あたりで 10万円程度になったようだ。これで急速に景気を悪化させた。となると、今のようなどん底のデフレ状態では、一人あたり 15万円くらいは必要かもしれない。となると、国全体では 18兆円となる。かなりの規模だ。
これほど大規模な減税ないしバラマキとなると、並みの宰相には実行できまい。しかし、それができるかどうかで、国を救うかどうかが決まるわけだ。
大規模な減税または増税をするとなると、財政赤字の問題が出てくるだろう。しかし、これは、問題ない。
(1) 官と民
財政赤字といっても、二種類ある。
・ 第一は、公共事業などで、「国が金を使う」やり方だ。
・ 第二は、減税などで、「国民に金を渡す」やり方だ。
この両者は、まったく性質が異なる。その点に注意しよう。
「財政赤字を減らせ!」とよく言うのは、「無駄な公共事業を減らせ」という意味だろう。たしかに、公共事業は無駄だし、いくら景気回復効果があるとしても、その赤字を後で増税などで負担しなくてはならないので、国民の金を政府に移転することになる。国民には損になる。
減税などは、そうではない。これは、国が金を使うわけではなく、国民が金を使うわけだから、国民に損をかけるわけではない。もちろん、無駄な事業をするわけでもない。「莫大な財政赤字が溜まって、あとで増税の可能性がある」というのは、たしかにその通りだが、「減税したあとで増税」なのだから、差し引きしてチャラである。国民にとっては、あとで増税されても、損ではない。
結局、「財政赤字はけしからん」「財政支出はけしからん」というのは、金を政府が使う場合には当てはまるが、金を国民が使う場合には当てはまらないのだ。
(2) 中和政策
「今は減税で、後で増税」
というのは、中和政策の方法である。 ( → 第3章 「中和政策」)
この方法は、二重の意味で好ましい。
第一は、「減税の額よりも、増税の額の方が少なくて済む」という点だ。たとえば、18兆円の減税を実施しても、あとで増税するのは 12兆円程度で済む。差額の6兆円ほどは、「経済学的なマジック」によって生み出せばいいからだ。これは、「無から有を生み出す」というふうに見えるので、とても好ましい。 ( → 第3章 「経済学的なマジック」)
第二に、景気を安定させる効果が強い。今は不況なので減税して、後では好況なので増税する、という方法は、長期的に見て、景気を安定させる効果が強くなる。こう言うと、「増税は景気を冷やすぞ」という反論が来そうだ。特に、マネタリズムやサプライサイドの経済学者から、文句が来そうだ。しかし、増税は、景気に対して有意義でもあるのだ。単に増税して、その金を国が勝手に使ってしまうのであれば、国民から国への所得の移転が起こる。そうしてインフレが起こりやすい。しかし、増税して、その金を財政赤字の処理(赤字国債の処理)のために使うのであれば、マネタリズムでいう貨幣供給量の減少が起こるので、貨幣価値の増大が起こる。かくて、国民にとっては、得だ。しかも、このことで景気を冷やす効果が出るので、量的緩和を実行して、金利を低くすることが可能となる。そのことで、需要を刺激し、かつ、物価の安定を保つことも可能となる。かくて、経済は好ましい循環に入る。……その最も典型的な例は、クリントンの経済運営に見られる。彼の政権では、増税によって財政赤字を解消し、同時に、景気の安定と経済の持続的な拡張を実現し得た。これはたしかに「(好況時の)増税」の成功例である。 (この件については、あとでまた述べる。)
「最初の一撃」は、「流動性の罠」に陥ったとき以外は、必要はない。金融操作だけで、物価上昇率をコントロールできるからだ。
ただ、必要はないのだが、現実的には、ある程度の減税などを実施した方が好ましい。その理由は、二つある。
第一は、金融操作だけでは、力不足になることがあるからだ。もともと高めの物価上昇率と高めの金利が設定されているときであるならば、金利を大幅に引き下げることで、大幅な景気刺激効果をもてる。しかし、低めの物価上昇率と低めの金利が設定されているときだと、金利を多少下げても、あまり効果は出ない。そこで、金融操作以外に、財政支出を組み合わせた方が、効果がよく出る。── 実際、過去の景気回復操作では、この両者が同時に併用されるのが普通だった。
第二は、「民への補償」という意味がある。物価上昇というのは、原則的には好ましい状態なのだが、不況から好況に移転する過程では、賃金の上昇が物価の上昇に追いつけなくなる。特に、最初の年、不況で賃金が上がらないのに、物価上昇だけが起こるのでは、国民は困ってしまう。不平たらたらである。「物価上昇など頭に来る」という声が充満する。そこで、物価上昇による損失を補う意味で、減税などを実施して、現金をプレゼントするわけだ。── こうすれば、物価上昇でいくらかの損失を受けても、それを上回る金額をプレゼントされるわけで、国民としては不満はない。かくて、物価上昇という政策が実現しやすくなる。(逆に言えば、不況のときに減税をするなら、物価上昇を組み合わせるべきだ。単に現金をプレゼントするだけでは、金の有効な使い方にはならない。)
先に、「消費の義務」を宣言するべきだ、と示した。たとえ政府がこう示したとしても、反発が来るはずだ。
「消費をしろ、と言われても、先立つものがないぞ。金がない。どうしてくれる」
「物価上昇をすれば、金がないのに、ますます金がなくなる」
と。だから、こういう反発をやわらげるためにも、ぜひとも、減税などが必要となるわけだ。
需要のコントロールを実施するに当たっては、ここまで述べてきたことをすべて「宣言」するとよい。つまり、「需要統御政策をする」という「宣言」である。
先に、「消費の義務」を宣言する、と述べた。これは、国民の行動についての宣言である。一方、「需要統御政策」の宣言は、国の経済政策についての宣言である。
次のことをまとめて宣言するべきだ。
[ cf. なお、最後の2項目については、「第3章・付録4」に示したので、そちらを読んでほしい。かなり難解だが。]
需要統御理論の骨格は、すでに述べたとおりである。ここで、要約ふうに、話をまとめてみよう。
最後に、需要統御理論の歴史的な位置づけをしてみよう。従来の経済学と対比して。
従来の経済学の目的は、二つあった。インフレの克服と、不況の克服である。インフレの克服は、「物価の安定こそ至上命題」という考え方で、多くの経済学者に信奉されてきたが、実際には、マネタリズムで簡単に解決された。しかし、インフレは解決されても、不況の方は解決されなかった。かつてはケインズ的な方法が成功を収めたが、「官需(公共事業)を増やせばよい」という方法は、社会資本の充実した現在では、時代遅れなものとなった。
それでも問題が大きくならないうちは、金融政策によって景気の安定を図ることができた。ところが不況が深刻化すると、金利をゼロからさらに引き下げられないので、金融政策が無効になってしまった。ゼロ金利という未曾有の状態に対面して、経済学はなすすべを失った。
そこへクルーグマンが登場して、原因を「流動性の罠」という言葉で解明した。さらに、そこから脱出するための方法として、「インフレ目標」という政策を示した。それは「インフレ期待」をもたらすことで実質金利を引き下げようとするものだった。
この提案は有効なものと思えたが、世間の反発を買った。「物価安定こそ至上命題」と信じる古い経済学者からは受け入れられなかったし、「物価上昇は損だ」と信じる国民一般からも感情的に受け入れられなかった。
それに対して、私が、クルーグマン説を補強して拡張した。「物価安定は至上命題ではなく、景気安定が至上命題である」「物価上昇は損ではなく、資産の損を上回る所得の得がある」と示して、受け入れやすくした。さらに、具体的な方法でも、物価上昇率を「固定値」でなくて「可変値」にするべきだと指摘した。そして、これら全体を、「需要のコントロール」という概念で体系化した。生産性の向上のある社会では、経済システムはたえず歪みを受けるので、その歪みを修整するために、需要のコントロールが必要なのだ、と示した。
……というふうに、まとめることができる。
さて、理論的な位置づけはその通りなのだが、他に、根本的な価値観についても述べておこう。
クルーグマンにせよ、他の人にせよ、たいていの人が次のように感じている。
「デフレのときにはインフレ的にするべきだ。だから物価上昇が多少は必要だ」
というふうに。
ここでは、物価上昇はあくまで、「不況から脱出のための手段」として受け止められている。つまり、一種の必要悪である。つまり、
「物価上昇は、害があるので、ない方がいい。しかし実際には、そういう具合には行きそうもないので、やむなく、物価上昇を我慢する」
というわけだ。
需要統御理論では、そういう考え方は取らない。物価上昇は、必要悪ではない。悪ではなくて、善なのだ。人間にとって血液が必要であるように、経済成長のある社会では物価上昇は欠かせないものなのだ。血液がなくなれば人間は死んでしまうように、物価上昇がなくなれば経済は不況になってさらには恐慌になる。(経済が死んでしまう。)── だから、物価上昇は、過度にならない限り、「良いもの」なのだ。物価上昇率を適切なプラスの値に保つことこそ、経済学のめざすべきものなのだ。
これは、一種の「コペルニクス的な転換」と言えるかもしれない。これまでは「必要悪」「我慢するべきもの」とされてきたものを、「善なるもの」「歓迎するべきもの」と受け止めるのだから。
しかし、これは、決して不自然ではないのだ。なぜか? それは、次の理由による。
なるほどたしかに実感的には、物価上昇は「損だ」と思えるだろう。ただし、それは、「消費者にとっては損だ」というだけのことだ。実際には、どうか。人は誰しも、消費者であると同時に、生産者である。消費者にとっての利益だけを追求すればいい、というわけには行かないのだ。「人」の損得を考えるには、「消費者として」の損得を考えるだけでなく、「生産者として」の損得も考えるべきなのだ。では、その立場では? ── 物価を下げれば、消費者として得になる。しかしその分、生産者としては損をする。この意味では、損得は釣り合っており、損も得もない。さらに、ここに、生産性の向上が加わる。生産性の向上は、消費者としては、物価下落を意味するので、得をする。しかし、生産者としては、余剰人員の発生(倒産と失業の発生)を意味するので、損をする。得よりも損の方がずっと大きい。── では、この問題を解決するには、どうするべきか? 景気を拡大すればよい。そして、そのためには、物価の上昇が必要となる。つまり、生産性の向上を上回るような、経済の拡大が必要で、そのためには、需要のコントロールが必要となる。(すべての産業で生産性が上昇していれば、すべての産業で失業が発生して、どこでも失業者を吸収できなくなる。……もし需要が伸びなければ。)
結局、消費者としての立場だけでなく、生産者としての立場も考えれば、物価上昇 [≒ 需要拡大策 ] はどうしても欠かせないのである。 生産性の向上がある限りは。
( ※ ひるがえって、今の日銀の経済運営が失敗しているのは、消費者としての立場しか考えていないからだ。なるほど、日銀は、「物価の安定」を狙って、それを実現したので、消費者としての国民は満足した。しかし、大量の失業や賃下げが生じることで、生産者としての国民は非常に不満になった。)
( ※ 言うまでもないが、物価上昇がゼロであることを否定しているだけだ。つまり、「微弱な物価上昇が必要だ」と言っているのであり、「物価上昇は多ければ多いほどいい」と言っているのではない。誤解なきように。)
人類は長らくインフレに悩んできたので、物価上昇をすっかり恐れるようになってしまった。しかし、高めの物価上昇が有害であるように、物価上昇がまったくないのも有害なのである。
そのことは、世界大恐慌(超デフレ)のときに、世界中の人々が身にしみて理解した。しかし戦後になるとインフレ続きなので、誰もがそのことを忘れてしまった。そしてバブル破裂後に、ようやく、日本はそのことを思い出したのだ。
しかし、思い出しても、身になじんだ「物価上昇は駄目」という概念は、なかなか捨てきれない。古い自分を捨てて新しい自分を得るには、勇気がいる。その勇気が日本にはない。だからこそ、政府も国民も、不況から脱するための一歩を踏み出せずにいるのである。未踏の領域におびえて。
新しい時代の鶏鳴を聞くには、 chickenheart を捨てるしかない。
● 需要統御理論の本論は、ここで終わる。
このあと、「補足」という別文書を公開する予定。
そこではさらに、細かな点などを追記したりする。
(公開日時は未定。)
● 誤入力 ・誤変換が、まだ少し残っているかもしれません。
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