[付録] ニュースと感想 (44)

[ 2003.3.17 〜 2003.3.25 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

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● ニュースと感想  (3月17日)

 「貨幣数量説の当否」について。
 このあとしばらく、修正ケインズモデルを離れて、景気変動と貨幣数量説について考察する。(数日後に、ふたたび修正ケインズモデルに戻る。)

 前項で述べたように、景気変動では、生産量の上下がある。このことを「貨幣数量説」と結びつけて考えよう。
 貨幣数量説では、貨幣供給量が、「生産量」と「物価」との積に比例する。式で書けば、こうだ。
   (貨幣供給量)= × (物価水準)×(生産量)
 そして、この「生産量」が、景気変動にともなって上下する。(前項で述べたとおり。)

 マネタリズム(元祖たるフリードマン)の「パーセント・ルール」は、こうだ。「貨幣供給量の伸びを、生産量の伸びと同等にすれば、物価は安定する」。
 そして、このことをもって、「貨幣供給量を一定にすれば、景気は安定する」という。しかし、これは、おかしい。景気とは、物価のことではなくて、生産量のことだと見なせば、上の説には不具合が起こる。
 貨幣供給量を一定にすれば、「生産量」と「物価」との積は一定になるはずだ。しかしそれが意味するのは、「生産量」と「物価」との反比例関係である。つまり、
  「物価が上昇すれば、生産量は減る」
  「物価が下落すれば、生産量は増える」
 となるはずだ。(*
 しかし、そんなことは、ありえない。事実は、逆だ。つまり、
  「物価が上昇すれば、生産量は増える」(インフレ・好況)
  「物価が下落すれば、生産量は減る」(デフレ・不況)
 となる。
 その意味で、貨幣数量説は、マクロ的な景気変動については、正しいとは言えない。
 ( ※ 正確に言えば、上述の等式が成立しないのではなくて、「  は定数である」という主張が成立しない。つまり、  が変化する。)

 では、なぜ、貨幣数量説が正しい(つまり  は定数である)と思えることがあるのだろうか? それは、貨幣数量説が、ミクロ経済に基礎をおいているからだ。ミクロ経済では、次のことは成立する。
  「生産量が減れば、市場価格は上昇する」
  「生産量が増えれば、市場価格は下落する」
 これの論理の順序を逆にすれば、
  「市場価格が上昇すれば、生産量が減る」
  「市場価格が下落すれば、生産量が増える」
 この「市場価格」を「物価」と置き換えれば、上の (*) と同じとなる。
 そして、このことは、「需要が変動しなければ」という仮定のもとでは、成立する。需要が変動しなければ、たしかに、生産量と物価(市場価格)は反比例関係にあり、貨幣数量説は成立するのだ。

 しかし、問題は、「需要が変化する」ということだ。需要の変化こそがマクロ経済の本質である。(修正ケインズモデルを参照。)……にもかかわらず、その一番肝心な「需要の変化」というものを無視して景気変動を論じているところに、貨幣数量説の根本的な間違いがある。それはまた、古典派の根本的な間違いでもある。
 
 結局、まとめて言えば、次のようになる。
  1.  景気変動とは、生産量の変化のことである。
  2.  景気変動(生産量の変化)は、需要の変化によって発生する。
  3.  景気変動に、物価の変動がともなうこともあるが、それは、本質的ではない。(ただし、物価の変動が、生産量の変動に影響することもある。)
  4.  「生産量と物価とが反比例する」ということを意味する貨幣数量説は、景気変動に対してはまったく正しくない。なぜなら、そこでは、「需要の変化がない」ということを仮定しているからだ。これは、上の第2項に反する。
  5.  現実には、景気変動の際、どちらかと言えば、「生産量と物価とがほぼ比例する」というふうになる。とすれば、ここでは、定数と見なされていた「貨幣の流通速度」が、実は大きく変化していることになる。
  6.  長期的には、景気変動(需要の変動)を無視できるので、長期的には、貨幣数量説は成立する。(景気変動を越えた長い期間を見れば、という限定が付く。)
 さて。話はここでいったん完結している。このあと、さらに「タンク法」について、位置づけよう。
 タンク法では、増減税を通じて、貨幣量の調節がなされる。その意味では、タンク法は、「貨幣数量説」に根拠を置いている。その根拠とは、「貨幣量が増えると、物価が上がる」ということである。
 ただし、貨幣数量説は、景気変動については正しくない。第5項で述べたとおり、「貨幣の流通速度」が、定数とならず、大きく変化していることになる。
 だから、こう言える。タンク法で減税を実施した直後には、まさしく所得が増えているのだ。ただし、その後、じわじわと物価が上昇するにつれて、物価上昇の分、実質所得が減っていく。だとしても、減税を実施した直後には、まさしく所得が増えているのだ。……たとえば、減税によって、所得が5%増えたとして、その 105%の所得を、すぐさま消費に回せば、まだ物価は上昇していないわけだから、その人はまさしく所得が増えたことになる。100万円しかもっていないときに、5万円の減税を受ければ、105万円分の商品を買うことができる。……ただし、減税をした直後だけだ。時間がたつうちに、100万円の商品が値上げして、105万円になる。だから、時間がたつにつれて、所得が増えた効果が消えていく。
 というわけで、タンク法では、「減税をすると、その直後には、貨幣数量説とは別の効果(所得増加の効果)が出るが、景気回復後には、貨幣数量説に従う」というふうになる。短期的な意味と長期的な意味が異なるわけだ。これはこれで、当然だろう。
 
 一方、マネタリズムの考え方は、そうではない。「貨幣数量の変化が、ただちに物価の変動をもたらす」と考える。つまり、「貨幣数量を増やすと、物価が上がる」というふうに考える。
 しかし、先にも述べたとおり、貨幣数量説は、景気変動の起こる程度の期間では、成立するとは言えないのだ。もっと長い期間を見たときのみ、成立するのだ。
 なるほど、貨幣数量の増減は、金利変動をもたらす。だから、そのことで、投資を変動させる。しかし、それはあくまで、金利と投資との関係である。つまり、金融政策の問題だ。貨幣数量説とは関係がない。(貨幣数量があまり変化しないまま、金利だけが大きく変動する、という状況も、なくはない。金利が金融当局の意向を大きく受ける状況では、そうなる。この場合、意味があるのは、金利だけであり、貨幣数量ではない。)
 
 結語。
 貨幣数量説は、景気変動については、正しくない。ただし、(中短期的な景気変動を越えて)長期的には、正しい。
 タンク法は、中短期的な景気変動に影響がある。それは、実際に所得の増加があることによるのであり、貨幣数量説を通じた効果によるのではない。ただしタンク法も、長期的には、貨幣数量説に従うので、所得の増加は、当面はあっても、やがてはなくなる。

 [ 補説 1 ]
 ここで述べたことの、ポイントは何か? それは、マネタリスト的な景気回復策の否定である。「物価上昇で景気回復」というのが、彼らの主張だ。「物価上昇があれば、先に消費した方が得だから、消費が増える」という理屈だ。しかし、そこには、「所得」の考察が欠けているのである。
 物価が下落すれば、実質所得は上昇する。マネタリストの主張は、「実質所得が上がると、消費が減る」という主張になる。「貧乏人の方が金持ちよりも多く消費する」というわけだ。奇妙きわまりない。論理が破綻している。── 平均消費性向の低下と、消費の絶対額の低下とを、混同しているわけだ。所得そのものが増えれば、平均消費性向が低下しても、所得の絶対額は増える、ということに気づかないわけだ。
 マネタリストの根元的な誤りは、「デフレそのものを説明できない」というところにも現れている。デフレとは何か? 消費性向の低下のあと、生産と需要と所得とが相互的に循環して縮小していく過程である。それがデフレスパイラルだ。これは所得を通じてなされる。── この「デフレスパイラル」という本質を、マネタリストは、まるきり無視する。マクロ的な分析をないがしろにして、すべてをミクロ的に片付けようとする。彼らの発想には、「総需要」とか「総所得」とかいうものは、まったく現れない。そういうふうに、「デフレスパイラル」という本質をまるきり無視するから、彼らは所得を無視して、「量的緩和」なんていう貨幣のいじりっこをして、喜んでいるのである。
 マネタリストというのは、砂場で砂をいじって喜ぶ幼児と、同じレベルだ。「砂がいっぱいあればいいんだ。うれしいな」というわけだ。

 [ 補説 2 ]
 ポイントとなることを、もう一度、強調しておく。「貨幣供給量の増加による物価上昇というのは、景気回復策の効果がないが、所得の増加は、景気回復策の効果がある」ということだ。
 マネタリストは、貨幣数量説に基づいて、こう言う。「量的緩和をしよう。そうすれば、物価上昇が起こる。だから、物価上昇の前の、先食い需要が生じる。ゆえに需要の増大によって、景気が回復する」と。
 しかし、物価上昇が起こるのは、需給が均衡したの話なのである。需給が均衡するには、物価上昇は起こらないのだ。(当たり前だ。需給ギャップがあるということは、価格下落の圧力が働いているということだ。ここでは、将来の物価上昇は予測されないから、急に需要が増えることはない。ゆえに物価も上昇しない。……実際、現状は、そうなっている。いくら量的緩和をしても、金は滞留するだけだ。)
 結局、量的緩和の効果とは、こういうことだ。
 要するに、「メリットはなく、デメリットだけある」という政策である。
( ※ ただし、である。強いて言えば、「百害あって一利なし」のかわりに、一利ぐらいはありそうだ。その一利とは、「デフレ脱出の直後」、つまり、「病み上がり」のときである。こういうときには、「病み上がり」という弱々しい状態から、「健康」という強い状態に、経済を引き上げる効果はある。……しかし、さじ加減が難しい。たとえば、多大な量的緩和を実施していると、たちまち「薪に火がつく」という形で、ハイパーインフレになる。)


● ニュースと感想  (3月18日)

 前項の続き。「金融市場と均衡」について。
 マネタリストは「貨幣量が足りないから、量的緩和をせよ」と主張する。しかし、貨幣量は、ゼロ金利のときには、すでに余剰なのである。ではなぜ、貨幣量の増加が何も効果を出さないかと言えば、増えた分の貨幣量が、金融市場に留まっていて、商品市場には出回らないからだ。それはつまり、金が「需要」に回らずに、「貯蓄」に回っているだけだからだ。
 ここにポイントがある。では、その本質は、何か? 
 実はこれは、「均衡/不均衡」の問題である。「金融市場」という領域と「商品市場」という二つの領域がある。その両者の間で、金が均衡していれば、一方(金融市場)に金をつぎこめば、均衡する境界を接して、商品市場に金は流れる。しかし、不均衡になっていれば、一方(金融市場)に金をつぎこんでも、金はそこから商品市場に流れていかない。これが「滞留」という現象だ。

 このとき、経済はうまく行っていない。では、どうするべきか? 
 マネタリストの主張は、こうだ。「金融市場に金が溜まっているなら、金をどんどんつぎ込め。どんどんつぎ込めば、いつかは、金は商品市場に流れ込むはずだ。」
 私の主張は、こうだ。「問題は、金融市場が不均衡になっていることだ。だから解決するには、金融市場において、不均衡を解消して、均衡に戻せばよい。とにかく、やたらと金をつぎこめばいいというものではない。そんなことをするのは有害ですらある。つぎ込むべき金は、必要な量だけあればいい。余分な金をつぎこむのは、有害無益である。」

 [ 補足 1 ]
 たとえ話で言えば、こうだ。(金融市場の不均衡を、別の不均衡にたとえる。)
 蒸気機のエンジンがある。円筒内にピストンがある。ピストンという壁を隔てて、左室と右室とに分かれている。左室と右室とで、交替で圧力が加わる。ピストンはその圧力を受けて、右に行ったり左に行ったりする。そういう往復運動が、クランクを通じて、円形運動に変換される。
 さて。あるとき、ピストンが動かなくなった。どうやらどこかで、錆びついたかゴミが挟まったかで、システムがスムーズに動かなくなったらしい。このとき、二人の経済学者が、対策を主張した。
 南ちゃんは、こう主張した。「それまでは均衡していたのに、今は不均衡になったのだ。だから、不均衡を均衡に戻せばよい。それには、錆かゴミを取り除けばいい。それこそが、本質的な解決策だ」と。
 それを聞いた修理工は、早速、錆かゴミを、取り除こうとした。つまり、システムを点検しようとした。ところが、そこへ、マネタリストが現れた。
 マネタリストは、こう主張した。「ピストンが動かないのは、圧力が足りないからだ。もっともっと圧力を加えよ。どんどん圧力を加えて、無限に圧力を加えれば、必ずいつかは、ピストンが動くはずだ。だからどんどん圧力を加えよ」と。
 修理工は、それもそうだな、と思った。なるほど、それなら、いちいち自分が点検しなくてもいい。こちらの方が、ずっと手間がかからない。自分の手間を惜しむことこそ、彼にとっては大切だった。そこで修理工は、ボイラーに火をくべて、圧力を上昇させた。しかし、ピストンはびくともしない。また圧力を上昇させた。それでもやはり、ピストンはびくともしない。彼はマネタリストの主張を信じて、とにかく無限に圧力を上昇させようと努力し続けた。そしてついには、圧力が上昇しすぎて、ボイラーが爆発してしまった。
 修理工は、びっくりして、マネタリストに文句を言った。「ボイラーが爆発したぞ。どうしてくれるんだ!」と。マネタリストは平然として、言い放った。「私の言ったとおりだろう。爆発の圧力を受けて、ピストンは動いたじゃないか。ほら」と。
 たしかに、ピストンは動いていた。爆発の圧力を受けて、はるかかなたまで吹っ飛んでいたからである。
 修理工は文句を言った。「たしかに動いたけど、エンジンが壊れて、二度と動かなくなったぞ」
 マネタリストは言った。「そんなこと、知ったこっちゃないね。私が教えたのは、止まっていたピストンが動くことだけだ。その先、どうなろうと、私の知ったこっちゃない」
 なるほど、と修理工は合点が行った。たしかに、マネタリストが主張しているのは、経済においても、デフレを脱出することだけなのである。莫大な物価上昇が起ころうと、ひどいスタグフレーションになろうと、とにかく、「デフレを脱出した」ということなのだから、マネタリストにとっては、大成功なのである。つまり、日本経済が爆発しても、知ったこっちゃないのだ。
 修理工は、ガレキの山と化した蒸気機関のなれのはてを見て、慨嘆した。「日本経済も、こうなるのか」

 [ 補足 2 ]
 貨幣数量説に基づく不況脱出策は、もともと効果がない。なぜなら、貨幣数量説は、(金融市場の)均衡状態において成立するものであり、(金利ゼロの)不均衡状態においては成立しないからだ。── このことを、はっきりとわきまえよう。
 不均衡状態において大切なのは、「(需給や金融の)不均衡を埋めることのできる策」、つまり、「所得拡大策」であって、「均衡状態だけで成立する貨幣数量説」ではないのだ。
 そして、それゆえ、量的緩和なんてものは不均衡のときには無効だし、課題にやるべきではないのだ。

 [ 補足 3 ]
 すぐ上のことを、たとえて言おう。(不均衡のときにおける量的緩和。)
 「夏においてのみ有効な策」というのは、冬においては意味はない。「有効だ、有効だ」と、有効性の度合いを叫んでも、無意味である。
 「景気回復策として量的緩和を」と主張するのは、「蚊取り線香は有効だ」と冬に主張するようなものである。季節はずれの、ひどいお門違いだ。
 もう少しうまい比喩を示そう。夏においては、氷があると、気持ちよくなる効果がある。そこで冬においても、氷をどんどん運んできた。しかし、冬においては、氷は単にそこに積み重なるだけで、何の意味もない。気持ちよくなる効果は、全然ない。効果ゼロだ。そこで、「これでもか、これでもか」と氷をどんどん運んできた。しかし、いくらやっても、効果が全然ない。そこで、「まだ足りないのか。それなら、もっと、もっと。どんどん増やせば、いつかは効果が出るはずだ」と莫大に積み重ねていった。それでも、ちっとも効果がない。……ところが、やがて、季節が巡り、春が来た。すると、積み重ねておいた氷は、一挙に溶けてしまって、洪水状態となった。氷が少しあるだけならば気持ちよくなるはずだったが、氷が莫大にあるとかえって大被害となった。「あれれ、変だな?」とマネタリストは首をかしげた。「氷は徐々に溶けるはずなのに。どうしてうまく行かなかったのかな。あ、なんでだろ。なんでだろ」


● ニュースと感想  (3月18日b)

 用語について。「貨幣量/貨幣供給量/マネーサプライ/ハイパワードマネー/マネタリーベース」などの用語。
 私はこれまで、「貨幣量/貨幣供給量」という用語を使ってきたが、この用語は、正確さに欠ける点がある。読者に喚起されたので、ここで注記しておく。

 「貨幣供給量」という用語は、いろいろな定義の仕方があるが、普通は、「マネーサプライ」の意味で使われる。 M2 のように書かれることもある。その他、「ハイパワードマネー」(別称 マネタリーベース)もある。両者の違いは、「信用創造」の分だ。……これらの用語の意味は、経済学の教科書に書いてあるとおりなので、ここでは解説しない。
( ※ 初心者は、本を読んで、調べてほしい。)

 「マネーサプライ」と「ハイパワードマネー」は、均衡状態ではほぼ比例関係にあって、両者の増減はそれほど大きく食い違わない。たとえば、後者が1割増えれば、前者もほぼ1割増える。(ただしその効果がすぐに出るわけではないから、比率は短期的にはいくらか変動する。とはいえ、大きく変動することはない。)
 しかし不均衡状態では、両者の増減は食い違いが多くなる。たとえば、後者が増えても、前者が増えない。この食い違いが生じる理由は、「信用創造がされないせいだ」と解説されるのが普通だ。ただ、「金が使われないで滞留するせいだ」ないし「金が実需に向かわずに預金されるだけだ」と解釈しても、同じことだ。

 日銀の量的緩和に注目しよう。ここで直接的に操作する金は、ハイパワードマネーである。均衡状態では、ハイパワードマネーが増えれば、マネーサプライも増える。どちらも同じように増えるから、あまり違いを意識しないでいい。しかし、不均衡状態では、そうではない。量的緩和をすると、ハイパワードマネーばかりが増えて、マネーサプライはあまり増えない。両者の違いを意識する必要がある。
 となると、量的緩和のとき、「貨幣供給量が増える」というような言い方は不正確であるとも言える。ここで直接的に増やしているのは、ハイパワードマネーなのだが、「貨幣供給量を増やす」という言い方だと、マネーサプライを増やしているように感じられるからだ。(本当は「金の量を増やす」と書くべきであったのだが、「貨幣供給量を増やす」と書いてしまったわけだ。似た語感だから、そうなりがちではあるが。)
 
 結局、「マネーサプライ」と「ハイパワードマネー」を区別して考えるのが、正確であるわけだ。私はこれまで、両者を曖昧にしたまま、「貨幣量/貨幣供給量」という言葉を使ってきたので、正確さに欠ける点がある。そのことをお詫びしておきたい。
 ただ、これは用語の問題であって、話の論旨がおかしいということではない。「量的緩和があっても、金が眠って、金が有効にならない」という論旨は、そのままでいい。しかし、そのときの「金」とか「貨幣量」とかいう用語が、「マネーサプライ」と「ハイパワードマネー」のどちらを意味するかという点で、曖昧さがあって、読者に混乱を招いたかもしれない。厳密に考えたいときは、注意してほしい。

 なお、「マネーサプライ」と「ハイパワードマネー」のどちらか一方であると決めつけると、それはそれで、今度は表現が七面倒になる嫌いがある。「金が眠っている」というのは、「マネーサプライはいっぱいあるが、そのかなりの部分が効率的に使われていない」ということであり、「信用創造の量がしぼんでいる」ということだが、そういうふうに長々と書くと、面倒くさい。単に「金が眠っている」とか「金が滞留している」と書く方が、はるかに簡単である。だから、こういうふうに簡単に書いてきたわけだ。ただ、それが経済学的に何を意味するかは、本項の記述を読んで、正しく解釈してほしい。

 [ 付記 ]
 「貨幣の滞留とは、ハイパワードマネーが増えても、マネーサプライは増えないことだ」という解釈も成立する。ただ、もう一つ、貨幣の流通速度の変動という問題も関連するから、話はそう簡単ではない。
 ただ、以前は、「貨幣の滞留とは、貨幣の流通速度が低下したことだ」と記述したことがあったが、これは不正確であった。この分に加えて、「信用創造の量が減ったから」という分もある。両者をともに考慮するのが正しい。訂正しておく。
 なお、細かく言うと、次のようになる。個人のタンス預金の分は、もともと信用創造をもたらさないから、タンス預金の滞留の分は、「貨幣の流通速度の低下」だけをもたらす。企業の金庫に貯まる現金も同様だ。一方、銀行の金庫に貯まる金は、貸し出しに向かわないことを意味するから、「信用創造」が縮小したことを意味する。……この二つのうち、前者よりは後者の方が、影響は大きいようだ。
( ※ この件、定説というわけではない。ひょっとしたら、異説もあるかもしれない。「ハイパワードマネーとマネーサプライの関係」というのは、詳しく研究している人もいるはずだ。そういうのを調べてもいいだろう。)

 [ 参考 ]
 タンス預金の額などについてのデータは、次の箇所にある。
  → 2002年4月07日
 もっと細かなデータを知りたいときは、日本銀行のサイトを見るといいだろう。「ハイパワードマネーとマネーサプライの関係」についても、いくらかデータを得られる。

 [ 補足 1 ]
 信用創造の量が縮小したことについて、「それは銀行の経営が不健全化したからだ」と主張する人々もいる。不良債権処理論者がそうだ。しかし、その論理は、正しくない。
 銀行の経営が不健全化したことは、「信用創造の上限が減った」ことを意味するのであり、「信用創造のが減った」ことを意味するのではない。現実の量(融資量)は、上限に達していない。そのことは、「市場金利が低い」ということから、明らかとなる。(仮に上限に達していれば、市場では資金不足となり、市場金利はゼロよりも高くなるからだ。市場金利がゼロだということは、資金需要が資金供給を下回っていることを意味する。当然、融資量は上限に達していない。)
 だから、こういうときには、上限を拡大する「公的資金投入」が必要なのではなく、実際の融資量を拡大する「投資需要の拡大策」こそが必要となる。ここを勘違いしているのが、不良債権処理論者だ。

( ※ 朝日・朝刊・経済面・特集コラム 2003-03-17 の小林慶一郎の解説が、その典型的な勘違いだ。)
( ※ もっとひどい主張がある。「公的資金投入」は資金の貸与だが、貸与でなく贈与せよ、という案だ。国民の金を銀行にプレゼントする、という案だ。「過去の黒字の時期に払った分の税金を還付する」という名目だ。つまり、「赤字の企業には還付しないが、赤字の銀行にだけは還付する」という、大甘の案だ。……これは、まったく、道理が通らない。そもそも、「優勝劣敗」とは逆に、「劣者に金をプレゼントする」なんてのは、狂気の沙汰だ。しかも、それで効果があるなら、まだいい。現実には、消費や投資はまったく増えないで、巨額の金が眠るだけであり、不況脱出の効果はほとんどない。そして、不況脱出後には、銀行にプレゼントした財政赤字を埋めるために、国民には大幅増税となり、景気回復の芽を摘むから、状況はかえって悪化する。……「国民に大幅増税をして、その金を銀行にプレゼントする」なんて策が、景気回復になるかどうか、ちょっと考えてみればわかるだろう。なお、この案を出しているのは、読売などである。 → 読売・朝刊・1面 2003-03-17 )
( ※ いずれにせよ、デフレというものをとらえるのに、単に「金融システムが不健全になっている」とだけ見ていることによる勘違いだ。そこでは、「生産量の低下」という本質を見ていない。需給ギャップとかいうマクロ的な認識ができずに、すべての原因を個別銀行の不健全さに帰している。マクロ経済をまったく無視している。……ま、マネタリストや古典派に、マクロ経済を説いても、馬の耳に念仏ではあるが。)

 [ 補足 2 ]
 マネーサプライなどの統計データは、たしかに重要である。ただ、私としては、そういう貨幣的な統計データだけで経済を論じるということは、あまりしたくない。「マネーサプライが減ったから、経済が悪いのだ。ゆえに、ハイパワードマネーを増やせば、マネーサプライが増えて、経済は良くなる」なんていう乱暴なメチャクチャな主張になりがちだからだ。
 私としては、経済の状況を見るのに、統計データを使うなら、どうせなら、生産量を示すGDPというデータを使いたい。
( ※ その他、失業率なども景気の指標となる。どの統計的指標を使うといいか、という問題は、「需要統御理論」で示した。 → 該当箇所


● ニュースと感想  (3月19日)

 「貨幣数量説とタンク法」について。初めは、ちょっとしたパラドックスの話を述べる。するとそのあとで、かなり大切な結論も得られる。
 タンク法で減税をしたとしよう。このとき、
「貨幣量の増大があっても、物価上昇がない」
 という状況も考えられる。つまり、国民にとっては、
「減税の分がまるまる得となる。あとで物価上昇ないし増税によるツケ払いをしなくていい」
 という状況だ。それはどんな状況かというと、
「貨幣量の増加する割合が、生産量の増加する割合に、一致する」
 という場合だ。この場合は、生産量の増加にともなって、貨幣量の増加が必要となるから、物価上昇がないことになる。
 たとえば、500兆円のGDPがあるときに、5%にあたる 25兆円分、貨幣量の増加によって減税を実施する。そのあと、生産数量が5%増加すれば、貨幣数量が5%増えても、物価上昇はないことになる。もちろん、増税の必要もない。めでたし、めでたし。

 こういうことが可能であれば、あまりにもうまい話だ。「お金が空から降ってくる」のも同然だ。とはいえ、現実には、「お金が空から降ってくる」ことはありえない。とすれば、上の話は、どこかがおかしいことになる。パラドックスだ。
 では、正しくは?

 (1) 「ハイパワードマネー」と「マネーサプライ」
 第1に、前項の「ハイパワードマネー」と「マネーサプライ」を区別する必要がある。タンク法で増やすのは、「ハイパワードマネー」である。貨幣数量説で関係するのは、「マネーサプライ」である。 ( → 【 追記 】 を参照。)
 今、「ハイパワードマネーは 50兆円で、マネーサプライは 600兆円」であるとしよう。(これは 90年代後半のデータに従ったおおざっぱな数字。これは基準状態となる。つまり、金の滞留のない基本的な状態である。)
 そしてこのあと、GDPの5%の増加があるとしよう。すると、増えることが可能な貨幣量は、ハイパワードマネーは5%にあたる 2.5兆円であり、マネーサプライは 5%にあたる 30兆円である。
 だから、タンク法の減税をしても、「将来の生産量の上昇で吸収できる分」は、2.5兆円程度にすぎないわけだ。仮に、10兆円の減税を実施するとしたら、残りの 7.5兆円は、物価上昇をもたらすことになる。「物価上昇も増税もない」というふうにはならないわけだ。まさしくタンク法の主張するとおり、物価上昇か増税か、いずれかが必要となる。
( ※ ただし、その一部は、「生産量の増大」の分で食われるから、得をする感じがする。 2.5兆円分について言えば、「金が空から降ってくる」感じがする。これについては、次の (2) で示す。)

 (2) 生産拡大の前の時期
 生産量が増えたあとでは、物価上昇圧力はない。しかし、その前が問題だ。「需要は増えても、生産量はまだ増えていない」という時期がある。このとき、物価上昇圧力が働く。(これは、上の 2.5兆円分についても、当てはまる。)
 2.5兆円の減税を得て、2.5兆円の需要が増える。しかしまだ生産量はそんなに増えていない。この時期に、なだらかに物価上昇が発生する。そして、その物価上昇による損失は、ちょうど 2.5兆円分である。
 というわけで、ここにおいて、2.5兆円の損失が発生する。最初に 2.5兆円をもらって得をしたと思えた分は、この時期の 2.5兆円の損失と化する。差し引きして、損得はないわけだ。「お金が空から降ってくる」ということは、ないわけだ。
 とにかく、 2.5兆円については、この時期に物価上昇を通じて自動的に返済される。そして、その時期を経たあとでは、もはや 2.5兆円の分の物価上昇は発生しない。だから、この時期には、あわてて「物価上昇があるから、金利を引き上げよ」と騒ぐべきではないのだ。どうせそのあとで、物価上昇は自動的に収束するからだ。
( ※ なお、10兆円の減税をしたら、そのうちの 2.5兆円については、この時期に返済される。しかし、まだ 7.5超円分が残っている。この分は、あとで返済する必要がある。増税または減税を通じて。)

 (3) 成長期の痛み
 2.5兆円の返済をする時期には、「需要は増えるが、生産量は増えない」というふうになる。この時期には、7.5兆円分の需要もあるから、かなり高めの物価上昇が発生しがちだ。(たとえば年5% )
 このとき、「インフレ目標」論者は、「低めの物価上昇率」として、年2%を主張し、「5%の物価上昇が発生したから、金融を引き締めよ」と主張するだろう。「物価の安定こそ大事だ」というわけだ。しかし、これは、間違いだ。
 「需要は増えるが、生産量は増えない」という時期は、たしかにある。その時期には、損失が避けがたい。その損失は、かつて減税で得た分を払うわけだから、必須である。そして、その損失を避けようとして、無理に金融を引き締めると、成長が阻害されるのだ。
 この時期は、いわば、「出産の際の陣痛」の時期である。この痛みの時期を経なくては、「景気回復」という赤子が出産されない。痛みを恐れてはならないのだ。
 この痛みの時期は、どういう時期か? それは、こうだ。
 これが、「出産の際の陣痛」の時期である。こうして痛みを味わいながら、生産量は急速に成長していく。この時期には、高い物価上昇率が必須である。また、人々の所得の向上は十分ではなく、人々が「インフレの痛み」を味わう時期である。そういうことを代償として、急速な成長が進み、失業者は急速に減っていく。多くの人々が物価上昇の小さな痛みを味わうが、最も痛みを味わう失業者は急速に減っていくのだ。そして経済は元の経済水準まで回復する。

 一方、もしそうしなければ、どうなるか? 「出産の際の陣痛」としての物価上昇を拒んで、金融を引き締める。そのせいで、物価上昇の痛みは発生しないが、企業の収益性は向上しないから、企業は投資意欲をなくし、雇用意欲もなくす。失業者は大量に残ったままだ。── これは、「縮小均衡」の状態である。
 その実例は、欧州だ。物価上昇を恐れて、財政緊縮などを実行し、金融を緩和しない。おかげで物価上昇は発生しないが、高い失業率を解決できない。……これは、マネタリズム的な処方である。
 とにかく、「出産の際の陣痛」を恐れては、「景気回復」ないし「急成長」という赤子が出産されないのだ。
( ※ いったん縮小均衡を脱したあとでは、もはや、物価上昇を代償とする成長の必要はない。「陣痛」を味わうのは、あくまで、一時だけである。)

 結語。
 タンク法で減税を実施すると、当面は、所得の上昇に生産の上昇が追いつけないせいで、高めの物価上昇が発生する。しかし、これは当然のことであって、これを避けてはならないのだ。これはあくまで一時的な現象である。なのに、これを避ければ、成長が実現されず、「縮小均衡」の状態に留まる。
 不況から完全に脱するには、生産量を元の水準にまで戻すことが必要だ。その途中、高めの物価上昇率が発生するが、それを「(悪性の)インフレ」と誤認してはならない。失業率がいまだに高いときには、物価上昇率の安定にこだわってはならないのだ。大切なのは、あくまで生産量であって、物価上昇率ではないのだ。
 マネタリストは、貨幣と物価上昇率だけに着目する。それでは本質を見失う。デフレの脱出過程では、「物価上昇率が高くて、失業率も高い」という状況が必然的に発生するが、それは、インフレでもなく、デフレでもなく、スタグフレーションでもない。「出産の際の陣痛」なのである。
 経済とはどのようなものであるか、なるべく正確に理解する必要がある。物価と貨幣だけで片付けてはならないのだ。
( ※ ここで述べたことは、先日の話と関連する。 → 3月17日

 [ 付記 1 ]
 タンク法の概念については、しっかりと理解しておく必要がある。
 対比的に、マネタリスト的な「インフレ目標」を見よう。そこでは、「景気回復期の物価上昇はあるが、不況期の所得向上はない」となる。差し引きして、所得は実質的に減少する。(物価上昇の分だけ。)
 だから、タンク法は、「お金をばらまいて、あとで回収する」と考えるよりは、順序を逆にして、「将来の物価上昇があるので、あらかじめ補填しておく」と考えた方がいいかもしれない。
 このことを理解しないと、「減税でも公共事業でも、どちらも財政政策で効果は同じだ」という変な主張になる。以下を参照。

 [ 付記 2 ]
 タンク法の概念については、しっかりと理解しておく必要がある。
 対比的に、似たようでもダメなのが、マネタリストの類似案(財政政策の併用案)だ。彼らは「貨幣量の増大だけが大事だ」と主張して、「財政政策は、公共事業でも、減税でも、何でもいい」と主張する。とんでもない勘違いだ。
 貨幣量の増加によって財政政策の財源をまかなえば、そのあと必ず、多大な物価上昇が発生する。たとえば、10兆円の減税または公共事業で、ハイパワードマネーを 10兆円を増やせば、そのことが、将来の景気回復時には、12倍前後の 120兆円程度のマネーサプライ増大をもたらす。元が 600兆円だとして、その2割程度の物価上昇をもたらす。20%の物価上昇だ。
 この 20%の物価上昇を、3年で解消するとすれば、年7%程度になる。これは高すぎる。だから、高すぎる物価上昇を抑制するために、増税または金融引き締めが必要となる。
 金融引き締めが最も簡単だが、金利を上げると、今度は成長率が抑制される。デフレ脱出の直後には、まだ失業率がそこそこ高いはずだから、成長率を抑制するのはまずい。
 となると、増税しかない。それがベストだ。ところで、その増税は、前に減税をしたのでなければ、受け入れられない。「不況のときに 10万円の減税したから、今度は 7.5万円の増税をします」ならば、受け入れ可能だ。しかし、「不況のときに減税はちっともしませんでしたが、今度は増税だけします」となれば、国民の怒りは爆発する。となると、増税は不可能となり、物価上昇の道を選ぶこととなる。それは「低成長」「高失業率」のひどい道だ。
 だから、貨幣量の増加による財政拡大をやるなら、「減税」にするべきであり、「公共事業」はダメなのだ。今現在を見るだけなら、「減税」も「公共事業」も大差がないように思えるが、将来を見るなら、「将来の増税」を許容させない「公共事業」は、ダメなのだ。
 そもそも、本質的に言って、本四架橋やら、東京湾横断道路やら、そういう「穴を掘って埋める」ような無駄な策は、ダメに決まっている。この点では、「公共事業を削減せよ」と主張する小泉の方が、はるかに正しい。
 たとえて言おう。「公共事業」というのは、タダ働きを強要する、悪徳な高利貸しと同じである。人々は、苦しいときに、「金をやる」と言われた。その金をもらって、喜んでいたら、タダ働きをさせられる。結局、もらった金は、全部返済させられる。差し引きして、余計なタダ働きだけをさせられることになる。「働いた分ぐらい、金をくれ」と言ったら、「ダメだ」と言われる。「なぜか?」と尋ねれば、返事はこうだ。「おまえはたしかに働いた。しかし、穴を掘って、埋めただけだ。何も生産していない。何も生産していないのだから、いくら働いても、所得は得られない」と。そこで、「ひどいぞ」と文句を言ったら、「いや。いい思いをしたはずだ。不況で苦しんでいるときに、苦しまずに済んだはずだ。当面の苦しみを消したはずだ。たとえあとで苦しむハメになったとしてもね」と言われる。
 結局、「公共事業」の本質は、「問題の先送り」である。たしかに不況を消す効果はある。しかし、問題そのものを消したのではなく、問題の発現を先送りしただけだ。今のうちはいい思いをするが、将来になって苦しい思いをするだけだ。しかも、そのために、莫大なコストを要する。国民の失った壮大な富は、ガレキの山となって残る。全国至るところに、公共事業の残骸としての、ガレキの山があるはずだ。(宍道湖や諫早湾は、記憶に新しい。)
 その本質が大事だ。なのに、マネタリストにせよ、ケインズ派にせよ、そのことを理解できないから、「とにかく今の症状を消せばいいのさ」とうそぶいて、平気でいられるわけだ。

  【 追記 】
 本文の (1) では、こう書いた。
 《 タンク法で増やすのは、「ハイパワードマネー」である。貨幣数量説で関係するのは、「マネーサプライ」である。 》
 しかし、これは、記述が誤解を招きやすいところがある。読者から指摘を得たので、注記しておく。(面倒な話だから、いちいち読まなくてもよい。)

 【 1 】
 タンク法による減税では、「減税」と同時に、「量的緩和」を実施する。その意味では、「ハイパワードマネー」を増やす。この点は、本文で記述したとおりだ。
 ただし、現在のように、すでに多大な量的緩和を実施したあとでは、異なる。ここでは、「ハイパワードマネー」はすでに増やしてあるから、あらためてそうする必要はない。
 だから、こうなる。タンク法の減税は、「ハイパワードマネー」を増やして減税をするのだが、すでに「ハイパワードマネー」が十分に増えているときには、「ハイパワードマネー」を減らす、という策を同時に実施することになる。すると、差し引きして、「ハイパワードマネー」は減らないことになる。(それでも減税によって、マネーサプライは増える。)
 要するに、原理的な話と、今現在における実施法とでは、異なるわけだ。たとえて言おう。「ごはんと味噌汁」というのが定食だとしよう。本来ならば、この両者を取るべきだ。しかし、すでに「ごはんだけ2杯」を取っている場合には、「両者を取る」のではなく、「ごはんを1杯返して、味噌汁だけ取る」というふうになる。
 結局、量的緩和をしたあとでタンク法を実施する場合には、ハイパワードマネーは増えるどころか減る。上の本文で書いたのとは、違った事情になる。……この点、念のため、注記しておく。
( ※ 上の (1) では、90年代後半の状態を「基準状態」とした。量的緩和をしたあとの状態を基準とすれば、話は異なるわけだ。)
( ※ なお、結果を見れば、減税では明らかにマネーサプライが増える。政府が実質的に操作するのは「減税」だけだが、それによってマネーサプライが増える効果がある。ここでは経済政策の有無ではなく、「効果」の有無が問題となる。)

 【 2 】
 タンク法の減税は、どういう形で渡すかで、二通りある。
   (a) 現金で。
   (b) 預金通貨(小切手または口座振り込み)で。
 前者だと、ハイパワードマネーを増やすことになり、後者だと、マネーサプライを増やすことになる。
 私は、前者のタイプを基本として考えていたので、「ハイパワードマネーを増やす」と書いたが、現実には、預金通貨を使うことになりそうなので、「マネーサプライを増やす」ということになりそうだ。
 ただ、本当のところを言えば、減税を「現金で渡すか小切手で渡すか」というのはあまり問題ではなくて、日銀がその分の量的緩和をする、というところが肝心だから、上の 【 1 】 に従って、「ハイパワードマネーを(平常時より)増やす」と述べる方が正確だろう。


● ニュースと感想  (3月20日)

 「貨幣の意味」と「景気変動」について。
 前項で述べたことに関連して、話題を発展させよう。
 「貨幣(の価格)とは何か?」という質問に対する回答として、フリードマンはかつて、次のように答えた。
 実際には、その両者の面がある。つまり、貨幣は、商品を購買するためにもあるし、利子を生むためにもある。換言すれば、消費するためにもあるし、貯蓄するためにもある。
 両者は、物価上昇率と名目利子率との比較で、相対的に有利・不利が決まる。
 さて。ここで注意してほしいことがある。上記のように、「消費」と「貯蓄」の間で、有利・不利が生じるが、だからといって、人は有利な方を選ぶわけではない、ということだ。
 マクロ的には、「有利な方を選ぶ」という傾向は、少しぐらいならばある。しかし、一般的には、人は、「有利な方を選ぶ」という行動を取らない。たとえば、「 物価上昇率 < 名目利子率 」であるときに、貯蓄が有利だからといって、「ならば貯蓄をしよう。そのために消費を控えて、餓死しよう。自分は死んでも、遺産は子孫に残るから、その方が得だ」と思う人はいない。
 人が「消費」と「貯蓄」のどちらかを取るからは、有利・不利で決まるのではなくて、あくまで、その人の価値観で決まる。単純に言えば、好みで決まる。

 古典派の好きな「合理的期待形成仮説」というのに従うと、「人は損得で行動する」ということになっているが、こんな仮説は、まったく成立しない。「損得で行動する」のは、「営利を目的としていて、かつ、不死である」企業だけである。「幸福を目的としていて、かつ、寿命のある」人間は、「損得で行動する」ことはないのだ。たとえ消費が損であろうと、消費したいときには、消費をする。たとえ貯蓄が損であろうと、先行きが不安なとき(あとで餓死する危険があるとき)には、消費をせずに貯蓄をする。

 だから、貨幣は、「消費」と「貯蓄」の間で「どっちがいいかな」と迷っているのではない。「消費」なら「消費」、「貯蓄」なら「貯蓄」と決まった上で、その範囲内で「どこがいいかな」と迷っているのだ。次のように。
 そして、このことを仮定した上で話を進めているのが、古典派とケインズ派だ。古典派は、前者を前提とし、ケインズ派は、後者を前提とする。(後者は「流動性選好説」と称される。)

 しかし、私は、指摘しておこう。古典派とケインズ派のどちらも、正解ではないのである。貨幣には、「消費」と「貯蓄」の二つの面がある。その二つの面を、ともに理解することが大切だ。「消費」ばかりに着目して、そのなかでの行動を考えるだけでは足りない。「貯蓄」ばかりに着目して、そのなかでの行動を考えるだけでは足りない。どちらも考慮する必要があるのだ。
 「そんなことは言われるまでもなく、わかっている」と思うかもしれない。しかし、現実の経済学者は、全然わかっていないのだ。たとえば、現在、古典派(特にマネタリスト)は「量的緩和」をやたらと主張する。それは、彼らが、前者を前提としているからである。「貨幣は消費のためにある。ゆえに物価が上がれば、人々は消費を増やす」と主張する。それは、彼らが、「貨幣は消費のためにある」という前提を取っているからだ。しかし、現実には、人々は貨幣を「消費」のためではなくて「貯蓄」のためにも向けるのである。「物価が上がるから、早く消費した方が得だ」と古典派は言う。しかし、将来の所得が不安であれば、たとえ損になるとしても、人々は貨幣を「貯蓄」に向ける。
 人々は「損得」では行動を決めないのだ。なぜなら、人々の行動基準は、「損得」ではなくて、「幸福」だからだ。たとえば、「今買えばハンバーガーが5%引きだ。その方が得だぞ」と告知されても、「じゃ、ハンバーガーを今すぐ百個食べて、そのあとは毎日何も食わずにいよう」と思う人はいない。「来年に買えば電気代が5%上がる」と告知されても、「ならば今のうちに電気をいっぱい使って、来年は電気を使うのはやめよう」と思う人はいない。人々の行動基準は、「損得」ではなくて、「幸福」なのだ。そして、それゆえ、たとえ物価が上がるとしても、「貯蓄を減らして、消費を増やそう」という行動を取らない。……古典派(マネタリスト)は、ここのところを、根本的に勘違いしている。

 結語。
 貨幣は、「消費」と「貯蓄」の双方のためにある。前者では、「物価」と関連し、後者では、「利子率」と関連する。ただし、前者のみに着目すると、古典派的な発想となり、後者のみになると、ケインズ派的な発想となる。そのどちらか一方が正しいのではない。貨幣には、双方の面がある。そのどちらの面に着目すればいいかは、経済学者が決めることではなくて、国民の一人一人が決めることである。
 さて。国民の一人一人が決めることは、全体として、どちらか一方に大きく傾くことがある。「消費」に傾いたり、「貯蓄」に傾いたりする。そういうふうに心理的な要因のせいで、「消費」と「貯蓄」の割合が変化する。── そして、そのことがまさしく、「景気変動」なのである。修正ケインズモデルにおける「消費性向の変化」とは、「消費」と「貯蓄」の割合の変化のことなのである。
 古典派にせよ、ケインズ派にせよ、そのことを理解しなかった。両者を固定的に考えた。だからこそ、これまでの経済学は、「消費性向の変化による景気変動」という真実を、認識することができなかったのだ。

 [ 付記 1 ]
 人が「消費」と「貯蓄」のどちらかを取るからは、有利・不利で決まるのではない、── と上で述べた。これは、「有利な方を取るとは限らない」という意味だが、もっと強く、「不利な方を取る」と言ってもいい。嘘のようだが、本当である。
 「馬鹿な。どうして不利な方を選ぶんだ」と、読者は疑問に思うかもしれない。そこで、言い方を変えよう。「人々があえて片方ばかりを取ると、そちらが不利になる」というふうになるのだ。
 たとえば、人々がそろって貯蓄をすると、金利が下がる。ここでは、「金利が下がっているときに、あえて貯蓄をする」ということになる。また、人々がそろって消費をすると、物価が上がる。ここでは、「物価が上がっているときに、あえて消費をする」ということになる。── そのいずれにしても、有利な方を選ばず、あえて不利な方を選ぶ。こういう逆説的な現象が発生するのだ。
 このことをはっきりと理解しよう。そして、事実が逆説だと感じられる原因は、事実にあるのではなくて、経済学者の錯覚の方にある。(相関関係と因果関係を勘違いしている。)
 「金利を下げると、貯蓄が減る」ということは、たしかにある。ただし、それは、一定の状況が与えられたあとで、人為的に金利を操作した分だけである。すでに一定の状況が与えられているなら、そのあと、金融当局が人為的に金利を操作することで、「金利を下げると、貯蓄が減る」ということが成立する。
 しかし、そもそも、「一定の状況が与えられる」という前提が問題だ。その点については、逆になる。つまり、「金利が下がると、貯蓄が減る」のではなく、「金利が下がるのは、貯蓄が増えたときだ」となる。
 結局、短期的な金融操作と、長期的な金融傾向は、正反対なのである。ここを勘違いしないように、注意しよう。この件については、「IS-LM」の箇所でも、同じことを詳しく説明をした。( → 7月25日 ,7月26日 )

 [ 付記 2 ]
 なお、人々がそういう逆説的な行動を取る理由はなぜかと言えば、先に述べたとおりだ。つまり、人々の行動の基準は、「損得」ではなくて、「幸福」だからだ。そのせいで、あえて損をする行動を取ることもあるのだ。その方が幸福であるゆえに。
 換言すれば、価格が高くても効用が高ければ、人々はそちらを選ぶ。「安物買いこそベストだ、たとえ無駄な買物であろうと」と主張するのは、古典派経済学者だけだ。
( ※ 要するに、「合理的期待形成仮説」なんてものは、「ちょっと正しさが不足する」わけではなくて、「根本的に狂っているデタラメ」にすぎないわけだ。)

 [ 付記 3 ]
 企業の「投資」について補足しておこう。
 企業の「投資」ならば、個人の「消費」と違って、「損得」が行動の基準となる。企業は合理的な行動を取る。とすれば、企業は、物価上昇率を基準にした「投資」と、利子率を基準にした「貯蓄」のうち、有利な方を選ぶだろうか? いや、ここでもやはり、不利な方を選ぶ。というか、「不利」と見える方を選ぶ。
 なぜか? 個人の「消費」の場合と、事情は同様だ。利子率が低いときは、「融資を受ける(投資を増やす)方が得だ」と見える。しかし、利子率が低いということは、消費が少ないということだ。となると、たとえ投資を増やしても、売上げの増加が見込めない。下手をすると、設備が遊休して、償却不可能となる。利子率がどうのこうのという話ではなくて、とんでもない大損となる。たとえ利子が低くても、収益性が低くては、差し引きして損なのだ。企業は、利子率だけを基準に行動するわけではないのだ。
 利子率が低いときは、投資意欲そのものが衰えている。ちょうど、利子率が低いときは、消費意欲そのものが衰えているように。だから、企業の投資についても、「利子が下がると、投資が増える」ということは、(長期的に)成立しない。成立するのは、(短期的に)「利子を下げると、投資が増える」ということだけだ。
( ※ IS-LM の話と同様である。)

 [ 補足 ]
 上では、こう述べた。
 《 人々は「損得」では行動を決めないのだ。なぜなら、人々の行動基準は、「損得」ではなくて、「幸福」だからだ。》
 と。このことは、実は、マネタリスト的な「インフレ目標」の論拠を否定していることになる。
 「インフレ目標で、物価上昇を予告すれば、(実質所得が減少しても)需要が増える」とマネタリストは言う。なるほど、企業は「損得」で行動するゆえ、その通りになるだろう。しかし、人々は「損得」では行動しないゆえに、その通りにはならないのだ。
 具体的に言おう。物価上昇があると、企業は将来の投資を先取りするが、国民は消費を先取りすることがほとんどない。つまり、国民の毎月の支出額は、常にほぼ同等の額であって、一年後の電気代や食費を今のうちに支出するということはない。むしろ、将来の物価上昇に備えて、現在の消費を切りつめる。
 マネタリスト的な「インフレ目標」の根拠は、「人々は(所得に関係なく)損得で行動する」という考え方である。しかし、そんな考え方は、根本的に間違っているのだ。「一年後の昼食を今のうちに食べることこそ合理的だ」と考えるような経済学者は、肥満とダイエットを繰り返すのが合理的だと主張しているわけで、頭がイカレていると言うしかない。そして、そういうことを妄信する人々が、(所得を無視して)「インフレ目標」を馬鹿のひとつ覚えのように唱えるのである。
( → 3月05日


● ニュースと感想  (3月21日)

 「公定歩合と量的操作」について。「マネタリズムの意義」と関連して。
 公定歩合と、量的操作(量的緩和や量的緊縮という公開市場操作)は、どういう関係にあるだろうか? この問題を突き詰めてみよう。
 公定歩合と量的操作は、一見、独立しているようにも見える。また、市場金利とも、一見、独立しているようにも見える。しかし、もちろん、そんなことはない。公定歩合と量的操作は、直接的には関係がないが、市場金利を通じて関係する。
 そもそも、金融市場では、「需給の均衡」が成立する。融資の価格(金利)を上げれば、融資の需要が減る。そういう「需給の調整」が成立する。だから、価格と量とを、独立させて動かすことはできない。
 ただし、である。この「需給の調整」は、スピードが遅い。景気の変動は生産量の変動だが、それが所得の変動や投資の変動に結びつくまでには、時間がかかる。そこで、この時間を短縮させたい。それが「公定歩合の操作」である。
 だから、「公定歩合の操作」は、「市場金利の先取り」のみが意義をもつ。たとえば、景気が下降しているときに、先行きの金利低下を先取りして、公定歩合を下げる。そのことで、融資量の拡大をもたらし、融資量の変化が生産量の変化に遅れることを、調整する。

 こういう「先取り」のみが、公定歩合の意義だ。だから、「先取り」とは逆方向に公定歩合を操作することは、有害であるし、無意味であるし、効果があるかどうかも定かでない。強引に逆方向に操作しても、やがては市場金利の力を受けて、その逆方向の操作が無効になってしまうはずだ。

 結語。
 公定歩合と量的操作は、独立してはいない。相互に関連する。
 ただし、景気の変動に対して、金融の変化が起こるには、時期的に遅れがちだ。この遅れを短縮させる効果があるのが、「公定歩合の操作」である。それは「先取り」の場合のみ、有意義である。たとえば、インフレのときには、金利が先行き上昇することを見込んで、あらかじめ金利を上げることだけが有効である。下げることは有効ではない。たとえ下げても、資金需要が増えてしまって、市場金利は上昇する。(下手をすると、金利を下げたことで、インフレが加速して、かえって金利の上昇する幅を拡大する。)
 一方、量的操作は、市場の貨幣量そのものを操作する。これは先取りとか何とかではなくて、現実の操作である。上げることも下げることも有効である。インフレのときには、金利を上げるために量的緊縮をすることが自然だが、逆に、量的緩和をすれば、ひどい物価上昇をもたらすことになる。間違った方向であれ、ちゃんと効果が出る。(田中角栄内閣の時期には、そうだった。年率 30% を越える物価上昇が発生した。)

 [ 補説 ]
 「マネタリズムの意義」について。
 上で述べたことは、マネタリズムの正しさを示す。ただし、それは、「伝統的な金融政策に対する、マネタリズムの正しさ」である。「公定歩合を重視せよ」という伝統的な金融政策よりも、「貨幣供給量を重視せよ」というマネタリズムの方が正しい、ということだ。
 実際、バブルの破裂期にも、そのことが窺えた。日銀は金利を引き上げたが、バブル膨張はなかなか収束しなかった。ところが大蔵省の「総量規制」により、信用創造が抑制され、マネーサプライが抑制された。それによって初めて、バブル縮小の効果が急激に発生した。公定歩合の操作よりも、数量の操作が有効だったわけだ。
( ※ 「総量規制」とは? 90年3月の大蔵省の措置。不動産への融資を制限するため、不動産会社、建設会社、ノンバンクに対し、融資状況報告を促した「三業種規制」の通達。そのあと8月末に、公定歩合が 5.25%から6%に引き上げられた。実際には、この双方の効果があったと見なされる。……ここで肝心なのは、公定歩合の操作だけではダメだ、ということだ。)


● ニュースと感想  (3月21日b)

 前項の続き。用語解説。「クレジット・クランチ」と「フィッシャー効果」について。
 この二つの用語について、解説しておく。

 (1) クレジット・クランチ
 クレジット・クランチ(信用逼迫)とは、次のことだ。
 「何らかの理由で、銀行による信用創造が抑制され、市場金利が高止まりしている状況」
 典型的な例は、アメリカの 1990年後半以降の景気後退がある。不適切な融資によって貯蓄組合(S&L)が不良債権を増大させ、次々と倒産した。そのせいで信用創造が抑制された。金融システム全体が不全化した。公定歩合は下がったのに、融資金利(プライムレート)は高止まりした。
 この問題は、「不良債権処理」を進めることで、解決した。金融システムを健全化し、信用創造を回復することになったからだ。
 以上のアメリカの例は、「不良債権処理をせよ」という論者の主張するとおりになっている。ここではまさしく、彼らの主張が当てはまる場合となっている。(一方、「金利を下げる」という主張は、正しくない。そもそも信用創造が縮小していることが問題なのだから、信用創造を拡大する方が先決である。)
 では、今の日本のデフレは、クレジット・クランチに当たるのだろうか? 
 それは、市場金利を見ればわかる。もしクレジット・クランチが生じているとしたら、市場金利は高止まりしているはずだ。「公定歩合がゼロであっても、市場金利が2〜3%ぐらいに高止まりしているはずだ。当然、社債の金利も、そのくらいのレベルになっているはずだ。
 現実には、そうではない。金融市場の金利は、ほとんどゼロである。これはまさしく、「クレジット・クランチは発生していない」ということを示す。つまり、「資金需要があるのに、資金供給ができない」のではなく、「資金供給は減っているが、それ以上に資金需要が減っている」のである。
 とすれば、「信用創造」を目的とする「不良債権処理」とか「金融システムの健全化」という策は、まったく無意味だ、ということになる。
 ここでは、「公定歩合」も、「数量操作」も、どちらも有効ではない。金融政策そのものが無効になっている。
( ※ ここでは、不況の原因は、「総需要が不足しているから」である。つまり、不況の原因分析に関する限りは、ケインズが正しい。「有効需要の拡大」という対策は間違っているのだが、原因分析は正しい。)
( ※ 参考データ。 → 「複合不況」宮崎義一・著。中公新書 1078 )

 (2) フィッシャー効果
 フィッシャー効果とは、次のことだ。
 「量的緩和をすると、市場金利が低下するが、そのことで、かえって資金需要が増えて、市場金利が上昇する。量的緩和は、金利を下げる効果をもたない」
 つまり、量的緩和のあと、金利は一時的に下がるのだが、今度は元よりも上がるわけだ。短期的にはともかく、中長期的には逆効果になる、ということだ。
 このことは、不思議に思えるかもしれないが、別に、不思議でも何でもない。私が前に「IS-LM」のところで説明したとおりだ。IS-LM というものは、局所的にしか成立しない。長期的には、むしろ逆になるのだ。 ( → 7月26日
 フィッシャー効果が顕著になるのは、その「長期的効果」が比較的短期間に現れる場合だ。それは、「物価上昇率がひどく高い」という場合である。具体的には、生産能力が制限されている場合だ。「上限均衡点の突破」とか、「スタグフレーション」とか、そういう場合だ。
 もう一つ、「デフレ脱出の数年後」も、当てはまる。「縮小均衡」に近づくにつれて、生産能力が廃棄された状態になっているからだ。(「過剰設備の廃棄」という名目で、せっかくの大切な生産能力をあえて廃棄したわけだ。)……この場合、生産能力は急激に縮小したわけだから、その後、景気回復にともなって需要が拡大すると、生産能力の上限に達しやすい。

 フィッシャー効果が問題なのは、スタグフレーション期だ。投資を拡大したくても、金利が上昇して困っている。そこで、貨幣供給量を増やすのだが、(物価上昇が予想されて需要が増えるので)、金利が下がるどころか、かえって金利が上昇する、というふうになる。だから、設備投資の拡大ができなくなる。かくて、スタグフレーション期において、金融政策至上主義が破綻するわけだ。

 この場合も、「公定歩合」と「量的操作」が、ともに無効になっているわけだ。

( ※ 「物価上昇率が高くて、金利が高ければ、差し引きして実質金利は高くないから、需要には影響がない」と思われるかもしれない。違う。投機的な投資なら、実質金利だけに依存する。しかし、設備投資は、長期的に融資を受けるのだ。当面は、実質金利だけを考慮すればいいが、名目金利が高いと、あとで物価上昇が収束したときに、高い名目金利だけが残ってしまう。結局、投機的な投資だけが増えて、設備投資は減ってしまう。それが高金利の弊害だ。── だからこそ、高すぎる物価上昇率は、弊害があるのである。)


● ニュースと感想  (3月21日c)

 前々項の続き。「貨幣と経済政策」について。
 前々項では、「公定歩合と量的操作」の話を述べた。似た話で、「円レートと量的操作」についていえば、こう言える。
 「バブル期に、円レートを円安にするために、日銀は多大な市場介入をなした。その結果、多大な貨幣が供給され、国内的に資産インフレが発生した」
 以上のことからわかるように、次のことが言える。
 このことをまとめて、次のように言える。
 「公定歩合や円レートを操作しよう」というのは、「市場を操作しよう」という意味であれば、有害である。市場は、市場によって形成されるのであり、そこに国家が介入することは、市場を歪める。弊害が出ても、「当初の目的は達成されつつある」と信じて、弊害に気づきにくい。弊害が放置されがちだ。(バブルはその一例だ。)
 ただし、「貨幣の量的な変化」というものを、意識してやるのならば、弊害も意識されているはずだから、必ずしも有害だということにはならない。「量的緩和をなそう」と思ってやっているのであれば、そのプラスもマイナスも意識されているわけだから、特に問題があるわけではない。

 具体的に言おう。
 バブル期には、「円安にしよう」「公定歩合を下げよう」と意図した。そういうふうに、市場に介入しようとした。しかし、そういうふうに市場に介入すれば、量的緩和がなされたことになる。なのに、そのことを意識しなかった。「円安が実現した」「公定歩合が下がった」と喜んでいて、「量的緩和による資産インフレの発生」を軽視してきた。そういう錯誤が発生した。
 現在も同様である。「円安にしよう」という意見がある。それに従って、市場に介入すれば、過剰な量的緩和が発生する。それは、今現在では無効であるが、将来的にはハイパーインフレを発生させがちだ。なのに、そのことを意識しないで、「市場介入で、円安が実現する。これで外需の拡大により、景気回復がなされるはずだ」と信じ込む。流的な変化を無視する。……こういうのは、バブル期の二の舞である。

 結語。
 「市場を操作しよう」という意味の貨幣政策は、有害である。それは、「市場は自由に操作できる」という誤認に基づいている。市場を勝手に操作することはできない。単に国家が「売り手」または「買い手」となって参加するだけだ。そのことで市場が歪む。
 ただし、「市場を操作しよう」という意図ではなくて、「貨幣を量的にコントロールしよう」という意図であるならば、メリットとデメリットを正しく把握している限りは、問題ない。
( ※ 本質的に言えば、こうだ。市場への介入は、ミクロにおける介入なので、するべきではない。ただし、貨幣量の操作は、マクロとしての操作なので、許容される。)

 [ 付記 1 ]
 たいていの経済学者の間違いは、次の点にある。
 ・ 「市場を操作しよう」という意図がある。
 ・ 「貨幣を量的にコントロールしよう」という意図があっても、メリットとデメリットを正しく把握していない。把握しているつもりになって、勘違いしているだけだ。(明日分の、次項と次々項を参照。)

 [ 付記 2 ]
 「円安にすれば、これこれのメリットがある」という主張は、まったくの底抜けであるわけだ。それは、市場介入のメリットだけを主張している。マクロ的なデメリットを見失っている。彼らは単純な頭で、「市場は操作できる」と信じているのである。底抜け論理。

 [ 付記 3 ]
 ただし、例外がある。市場への介入が、許容される場合がある。それは、「反対介入」だ。
 先に述べた介入は、「市場を一定の方向に歪めよう」というものだった。これは、悪い。一方、「歪んだ市場を、平常に戻そう」というものもある。これは、良い。
 バブル期の介入は、長期的に円高のトレンドがあるときに、そのトレンドに逆らおうとした。だから、悪い。
 一方、1年以下の短期間で急激に変動するのを抑制するのならば、良い。たとえば、2002年の初頭は円安傾向で、2003年の初頭は円高傾向である。こういう場合には、それぞれ、反対介入をした方がいい、と言えそうだ。
 なお、市場が歪む(市場まかせで安定しない)のは、リスクの負担があるからである。先行きどうなるかわからないときに、とりあえず、リスクを減らそうとする。リスクの変動によって、通貨レートが変動する。こういう場合には、リスク負担を国家が分担することで、通貨レートの変動を減らし、貿易に依拠するレート(本来のレート)に戻すことが好ましい。
 ただ、こういう「反対介入」は、経済政策や景気対策とはあまり関係がなく、リスク管理の問題となる。経済学の主要な問題(景気と関連する問題)とはならない。実体経済の問題ではなく、ただの投機の問題だ。


● ニュースと感想  (3月21日d)

 3月19日の最後に、【 追記 】を記述した。
     → 該当箇所
 ( ※ タンク法の用語の細かな説明である。面倒な話だから、いちいち読まなくてもよい。)


● ニュースと感想  (3月22日)

 「金融政策の限界」について。
 時事的な話題と関連するが、金融政策ばかりを主張するマネタリズムを否定しておこう。
 これまでは、不況脱出策としての金融政策に限界があることを何度か示してきた。それとは別に、スタグフレーションのときの金融政策に限界があることも何度か示してきた。ここで、その両者を対比してみよう。
 マネタリストは言う。「量的緩和をして、あとでインフレになったら、そのときに金融緊縮をすれば、インフレは収束する」と。
 しかし、そうか? 「そうではない。スタグフレーションになる」というのが、私の主張だった。

 ここで、現実を見よう。東南アジアや中東や南米などでは、スタグフレーションに悩む国が多い。「高い物価上昇率と、高い失業率」という状況である。これに対しては、マネタリズム的に「高い金利」という金融政策がなされる。すると、物価上昇率が高くても、金利が高いせいで、投資の採算が合わない。だから、投資をしない。だから、生産不足で物価上昇率が下がらない。……という悪循環となる。「高い物価上昇率と、高い失業率」という状況が、いつまでたっても解決しない。
 金融政策ではスタグフレーションは解決できない。金融政策で、金利を上げようが下げようが、スタグフレーションは解決できないのだ。このことを直視しよう。

 正解は? ここで必要なのは、金融政策ではなくて、「増税」なのである。それによってのみ、スタグフレーションの悪循環から抜け出せる。なぜなら、「物価を異常に高くしないまま、低い金利を実現する」という形で、投資を拡大し、生産能力を向上させることができるからだ。
 スタグフレーションを解決するには、「増税」が必須なのだ。金融政策だけで片付けようとしては、必ず失敗するのだ。そして、その証拠が、世界中のいたるところにある。

 マネタリストは、そのことに気づかない。「金融政策だけやればいい」と信じて、増減税による景気調節を、頑として拒む。
 そして、そういう依怙地な偏見が、デフレ期に現れると、今のマネタリストふうの処方となるのだ。「金融政策だけやればいい」と信じて、増減税による景気調節を、頑として拒む。
 スタグフレーションであれ、デフレであれ、マネタリストの処方は「金融政策だけ」という点で共通しており、その結果も「失敗」で共通する。

( ※ だから、デフレ脱出策として、「量的緩和を」と九官鳥のごとく繰り返すマネタリストには、質問するといい。「スタグフレーションは、金融政策だけで解決できるのか?」と。このとき、九官鳥のようにおしゃべりだったマネタリストは、ようやく口をつぐむのである。)


● ニュースと感想  (3月22日b)

 「ハイパーインフレの危険」について。
 過剰な量的緩和を実施したあと、デフレを脱出すると、どうなるか? 私はこれまで、「資産インフレ」と「ハイパーインフレ」の両方の可能性を指摘してきた。前者は資産市場に資金が流れ込んだ場合であり、後者は商品市場に資金が流れ込んだ場合である。そして、どちらかと言えば、前者(資産インフレ)の可能性の方が高そうだと見なしてきた。
 その理由は、バブル期に、そうだったからだ。バブル期には、過剰な量的緩和があったが、所得はあまり増えなかった。だから、実物需要よりも、資産投資の方に、資金が流れ込んだ。かくて、資産インフレが起こった。
 しかし、よく考えてみると、今回のデフレの脱出期には、バブル期とは違う現象が起こりそうだ。つまり、「ハイパーインフレ」が起こる可能性が十分にありそうだ。その理由を示す。

 理由は、バブル期とは違って、今回は、「円高」がないからだ。むしろ、「円安」の危険がある。
 バブル期には、「円高」があった。円高は「輸入デフレ」効果をもたらす。だから将来、価格下落が見込めた。ゆえに、商品市場に投資することは、起こりそうもなかったし、実際、起こらなかった。(だから資産市場に投資の資金が回った。)
 しかし今回のデフレ脱出期には、「円高」はない。すると、どうなるか? 次のシナリオが想定される。
 結局、バブルがふくらんで、バブルが破裂する。ただし、今度は、バブルの対象が、土地と株ではなくて、外貨(正確には円の逆投資)である。そのせいで、資産価格が上がるのではなくて、一般物価が上がる。つまり、「資産インフレ」ではなくて、「ハイパーインフレ」が発生する。そして、そのあと、バブル破裂にともなってデフレになる、というところは、前回と同じである。
 
 結語。
 過剰な量的緩和は、危険だから、絶対に避けるべきだ。特に、ハイパワードマネーを通常時の2倍にするほどの量的緩和、なんてのは、程度がひどすぎる。ゼロ金利になったあとの量的緩和は、百害あって一利なし、である。

 [ 補説 ]
 「ハイパーインフレはなぜ悪いか?」という疑問に答えておく。
  1.  経済を混乱させる。過剰な物価上昇で、人々に痛みを与える。
  2.  経済を制御困難にする。普通の状態ならば、経済は制御可能だが、ハイパーインフレは暴れ馬のようなもので、制御が困難である。勝手に暴走して、どこへ行くかもままならない。
  3.  生産量を縮小させる。
 このうち、1番目が「物価上昇」の効果であり、普通、ハイパーインフレというと、こればかりが着目される。しかし、2番目の「混乱」という方が、意味は大きい。その具体的なデメリットが、3番目の「生産量の縮小」だ。実は、これこそが、本質的なデメリットである。
 物価上昇ならば、単なる「痛み」にすぎず、心理的な問題にすぎない。物価が倍になって、所得が倍になるなら、損をするわけではないから、実害はあまりない。その意味では、「ハイパーインフレなんか怖くはない」という楽観的な主張も、当を得ている。
 しかし、本当は、「生産量の縮小」こそが問題なのだ。ハイパーインフレは、金利の上昇を通じて、投資を抑制し、成長力をそぐ。
 ハイパーインフレは、スタグフレーションになりやすい、ということが問題なのだ。物価が上昇するという点が問題なのではなくて、同時に失業や倒産が解決できないことが問題なのだ。その点、スタグフレーションもデフレも、実害はかなり似ているなのである。物価上昇率だけを見れば、スタグフレーションとデフレは正反対だが、生産量に着目すれば、スタグフレーションとデフレはかなり似ているなのだ。
 「物価上昇率の変動よりも、生産量の変動こそが問題だ」── この点に注意しよう。マネタリスト流に、物価上昇率ばかりにこだわると、本質を見失う。あげく、ハイパーインフレからスタグフレーションになったとき、失業や倒産が発生するのを見て、「変だな。なぜ物価上昇率が高いのに、失業や倒産が発生するのだろう?」と首をかしげることになる。「変だな。世の中には、デフレとインフレしか、ないはずなのに」と。……彼らの頭には、「スタグフレーション」という経済概念が、欠落しているのである。

 [ 補足 ]
 ただし、「どちらが悪いか?」と言われれば、「スタグフレーションよりも、デフレの方が悪い」となる。なぜか? スタグフレーションは、「成長がプラスになりにくい」ぐらいで済むが、デフレは、「成長が明らかにマイナスになる」からだ。
 スタグフレーションは、ともあれ、均衡となっている。良くはならないが、どんどん悪くなるわけではない。デフレは、不均衡となっている。需給ギャップがあるので、均衡点(縮小均衡の点)に向かっていく。その過程で、経済はどんどん縮小していく。(修正ケインズモデルからわかる。 → 3月02日
 例としては、世界大恐慌を考えるといい。不況の最中は、どうしても脱出できなかった。その後、「戦争」という公共事業がなされて、物価は高騰し、ハイパーインフレに近い状態となった。兵器ばかりを生産し、国民は所得を奪われ、生活が苦しくなったが、ともかく、経済は均衡を達成した。だから、戦争の終わったあとは、均衡を持続して、普通の経済の軌道に乗ることができた。

 [ 参考 ]
 ハロルド・フォークナー「アメリカ経済史」によると、第二次大戦勃発後の物価上昇は、次の通り。
 「基本商品と基礎原料はともに、9月ひと月のうちに約25%も上昇した。物価上昇それ自体が、広範な在庫の蓄積をよびおこし、さらに購買の流れを助長した。投機的なブームが続いた。」
 この例からもわかるとおり、「物価上昇は抑制できる」なんていうマネタリストの超楽観主義は、歴史的事実によって否定される。「ひと月のうちに 25%も上昇」なんてのは、制御不可能だからだ。日銀なら、月いっぺんの会議だから、会議を開いたときには、時期遅れである。その上、決定を出すには、根回しやら何やらで、さらに一カ月はかかる。
( ※ 日銀が迅速で、即時に「大幅利上げ」を決定しても、無効である。たとえば「年利 12%」という超高金利に改定しても、月利は1%だから、25%の物価上昇に対しては、焼け石に水だ。)


● ニュースと感想  (3月23日)

 時事的な話題。「日銀による投資信託購入」について。
 株価連動タイプの投資信託や、不動産投資信託を日銀は買え、という声が出ている。まったく呆れた話だ。道徳的にどうのこうのというわけではなくて、経済学の初歩を踏み外しているからだ。
 彼らの主張の根拠は、「量的緩和として、国債購入では買いすぎている(金利が下がりすぎている)から、こっちを買えばいい」というものだ。しかし、効果という点でいえば、どちらも同じだ。
 なぜか? 投資信託を買って出した金は、しょせんは、金融市場のなかの金である。日銀が代金として払った金は、実需に向かうのではなくて、別の資金運用に回される。結局、単純な買いオペをしたのと同じである。いずれにせよ、金は金融市場のなかで、ぐるぐる回るだけだ。 ( → [ 補説 ])

 メリットがない点では国債購入と同じだが、デメリットの点では国債購入よりも悪い。国債購入なら、たとえあとで暴落しても、日銀が損した分、政府は得する。差し引き、損得なしだ。投資信託では、そうではない。将来、暴落の可能性が非常に高い。なぜか? 市場が健全に機能しているならば、損得は特にない。将来的に値上がりが確実なら、誰もが買うから、市場価格が上がる。かくて、市場は適正水準になる。しかし、日銀が無理に買えば市場が健全に機能しなくなる。数十兆円の規模で投資信託を買えば、投資信託は適正価格の数倍に上がる。将来、暴落は必須だ。かといって、数十兆円の規模でなく、1兆円程度の規模ならば、もともと何の意味もない。50兆円の国債購入をしても何の意味もないところで、1兆円程度の投資信託購入をしても無意味である。
 仮に、何らかの効果が出るとしたら、少なくとも 30兆円程度の投資信託購入が必要だ。一方、市場価格が歪むというデメリットは、たったの 100億円ぐらいでも出るし、1兆円規模になればひどく出るし、10兆円を越える規模になればメチャクチャになる。たとえば、10億円の価値しかない不動産を 100億円で買う、というようなことになる。そんなことをやっていれば、「日銀の倒産」のようなハメになる。

 端的に言おう。「日銀による投資信託の購入」というのは、「民間銀行の不良債権をまとめて日銀に効果で買わせる」というのと、同じである。今はそうではなくても、将来、必ずそうなる。そのことで、市中に大量の資金が流れるし、マネタリストならば大喜びだろう。「金が大量に出回るから、これでデフレ脱出だ」と主張するだろう。
 しかし、その金は、ゴミを日銀に高額で売った人々の手に渡るだけだ。濡れ手で粟、である。そして、彼らが莫大なボロ儲けをした分、ちょうど同額が、一般の人々の手から奪われるのである。その効果は? 100人のうち、99人が所得を奪われ、1人が所得を増やす。その人は、消費を少し増やすが、大部分を貯蓄に回す。かくて、消費性向はさらに低下し、デフレはますます悪化する。とはいえ、物価上昇は発生する可能性もある。その場合、デフレを脱出して、スタグフレーションとなる。

 結語。
 所得を無視して、貨幣量だけを考えても、ダメなのだ。貨幣量の操作は、物価上昇をもたらすかもしれないが、生産量を増やすことを意味しない。生産量を増やすには、需要の増加が必要であり、それには、所得の増加が必要なのだ。
 生産量を無視して、物価上昇だけを考えるマネタリストの手法は、日本経済を破壊するだけだ。

 [ 補説 ]
 投資信託の購入は、国債購入と、どう違うか? 
 払った金が金融市場のなかでぐるぐる回る、という点では同じだ。その金は、別の金融商品に向かうだけであり、投資にも消費にも向かわない。だから実需を増やさないし、生産量を増やさない。つまり、景気対策としての結果としては、同じだ。ともに無効。
 ただし、日銀が現金を払うのと交換で手にするものが、異なる。投資信託という形を取っていても、実際には、購入するものは、株や不動産である。株式投資信託ならば、すべての株を買ったのと同じことである。不動産投資信託ならば、(途中に介在者がいるが、それと合わせて考えれば、)その不動産を買ったのと同じことである。
 つまり、投資信託の購入というのは、「日銀による株購入・不動産購入」と同じなのだ。非常に不公正である。日銀が国民の金を使って、投機というギャンブルをやるわけだ。あるいは、相場に介入して、相場を歪めるわけだ。まともな頭で考えるべきことではない。
 それでも、効果があるなら、まだいい。しかし、効果については、先に述べたように、金は金融市場のなかでぐるぐる回るだけだ。「金が実需に向かわない」ということから、景気回復効果はないのだ。国民全体のうちの1%の人間が莫大な金を得ても、その金は、全額が消費や投資に向かうことはありえず、ほとんどは貯蓄に回るだけだ。
 なお、日銀総裁は、「銀行ルートの金が詰まっているなら、債権市場ルートの金を出回らせるのもいい」と主張している。とんでもない勘違いだ。
 第1に、両者はともに金融市場をなすのだから、どちらに金を入れても、入れた金は相互に往来できる。どうせなら、単純に銀行ルートに金を入れても、同じことだ。あえてリスクのある方に金を入れる必要はない。
 第2に、「金が詰まっている」という考え方そのものが、間違っている。金は詰まっていない。金が詰まっているなら、市場金利は高くなるはずだ。クレジットクランチは発生していないのだ。( → 3月21日b 「クレジット・クランチ」)

 [ 付記 ]
 素人的な考えを批判しておこう。
 「景気が悪いときに株を買って、景気がいいときに株を売れば、問題はないはずだ」と素人は思うだろう。
 なるほど、小規模ならば、そうだ。1兆円程度ならば、年金資金などが余分に株式に投資してもいいだろう。
 しかし、1兆円程度では、景気回復効果などは、まったくないのだ。実需としての1兆円ならば、少しは効果がある。しかし、資産市場への1兆円は、そのほとんどがふたたび金融市場にまわり、滞留する金を増やすだけだ。結局、1兆円の量的緩和をしたのと、ほとんど差がない。
 だから、やるとしたら、数兆円どころか、数十兆円規模が必要となる。それでもまだ効果が出ないが、株価の異常暴騰というデメリットだけは多大に出る。そういう数量的な考察が必要だ、ということを、上では指摘したわけだ。
 「ちょっとでもやれば、いくらかは景気回復効果があるだろう」なんていう、素人的なおおざっぱな判断では、ダメなのだ。それはいわば、「ちょっとでも東にジャンプすれば、それだけアメリカに近づけるぞ」と思って、太平洋に飛び込むようなものだ。太平洋を渡るには、それだけの巨大な力が必要なのであるが、にもかかわらず、ちょっとだけ力を出して、「少しは効果があるぞ」などと思うのは、あえて海で溺れようとするようなものだ。

 [ 参考 1 ]
 新刊書への書評がある。(朝日・朝刊・書評欄 2003-03-16。「こんな株式市場に誰がした」前田昌孝・著。評者は池田和人)
 「株価だけに焦点を当て、それを動かそうとする試みは、百害あって一利なしと言っていい」
 「政府等の介入によって価格が動かされてしまうような市場を、投資家が信頼するわけがないではないか。市場の生命線は、公正な価格形成にある。その公正に形成されるべき価格を引き上げるように操作することを求めれば、市場を壊してしまうのは、いわば事の道理である。」
 といった文言がある。まったく、その通り。私もかねて同趣旨のことを述べてきた。
 たとえれば、株価とは、経済の体温計である。体温計の温度だけを上げたり下げたりしても、病気が治るわけではない。それどころか、体温計が狂ってしまうことで、正常な判断が不可能となり、以後は見当違いの行動を招いて、状況の混乱・悪化を招きやすい。目隠し運転をするようなもので、異常な暴走をしがちだ。加速したり、減速したり、脇に逸れたりで、暴走したあげく、どこかの障害物にぶつかりかねない。百害あって一利なし。(本当は、一利はある。その一利に引きつけられて、百害を招く。それが悲しいかな、凡人のサガである。)
 なお、「個別株ではなくて、投資信託ならば、買っても大丈夫」などと主張する人もいるかもしれないが、そういう人は、経済的な無知をさらけ出すだけだから、黙っていた方がいいだろう。資産運用の理論として、ポートフォリオ(資産選択理論)とか何とか、さまざまな理論があるから、そちらを先に勉強した方がいい。……簡単に言えば、こうだ。投資信託を莫大に購入すれば、それは株式市場の株全部を買ったのと同じことになる。当然、株価を異常に高めて、株式市場を歪める効果がある。特定の株ではなくて、すべての株を暴騰させるわけだ。

 なお、こういうふうに馬鹿げた国家介入策は、ケインズの「公共投資」もいくらか似ている。「民需が足りないなら、官需を増やしてやれ」というわけで、これもまた、一種の国家介入である。市場が病気だとすると、それを見て、「病人が飯を食えないなら、おれがかわりに飯を食ってやる」というわけだ。そして、「飯がゴミにならないで済んだ。だから感謝しろよ」と威張ったあげく、「飯の代金は、病人に払うべし」と言い捨てて、立ち去るわけだ。ただ飯食いだ。
 だから私は、そういう国家介入を批判する。「病人をほったらかして体温計を操作したり、他人がかわりに飯を食ったりするのでは、解決にならない」と。「本来のあり方は、病人の病気を治すことだ」と。

 [ 参考 2 ]
 市場への介入というのが、いかにひどい害悪をもたらすかを知るには、バブルの発生と破裂を探るといい。好個の書籍として、「複合不況」(宮崎義一・著。中公新書 1078 )がある。以下、簡単にあらましを示す。詳しくは、同書を参照。
 最初に、レーガノミックスによる人為的な「ドル高・金利高」があった。このあと、反作用として、巨額の貿易赤字・財政赤字が発生した。
 そこで、双子の赤字を解消するために、プラザ合意で人為的に「ドル安・円高」に転じた。このあと、反作用として、「米国国債の暴落・高金利」から「株よりも債権が有利」となって、米国で株式市場の暴落が起こった。
 日本では「円高対策」として、人為的な「低金利・量的緩和」を 1989年ごろまで続けた。その反作用として、過剰な株高・土地高が発生した。そのあと、米国の株価暴落を受けて、人々が恐怖心をいだき、資産市場から金が逃げ出した。政府・日銀の金融政策転換も後押しした。かくて、バブルは破裂し、急激に資産デフレが発生した。
 結局、人為的な市場操作のあと、反作用が出て、その反作用に対して人為的な操作をすると、また逆の反作用が出る、ということの繰り返しだ。しょせん、「政府による市場介入」というのは、百害あって一利なしなのである。市場で均衡するはずのものを、政府が介入して価格操作をすれば、数量がいびつになる。そのことが反作用となってひどい害悪をもたらす。
 要するに、「政府による介入」というのは、市場原理の否定であり、市場の破壊である。市場によって最適の点(価格・数量)に決まるはずのものを、強引にずらすから、不自然な金や物の動きが発生する。その歪みがたまったあとで、最後に歪みを戻そうとする力が一挙に噴出する。
 市場原理を否定する国家介入主義は、民主主義を否定する独裁主義と同様であり、戦争と同じぐらい恐ろしいものなのだ。それは爆弾を使わなくとも、経済を破壊する。


● ニュースと感想  (3月24日)

 時事的な話題。「時価会計」について。
 銀行の持ち株を時価で評価するという「時価会計」に批判がある。「竹中がそんなことをするから、ますます株価危機がひどくなる。時価会計をやめよ。それがデフレ対策だ」という批判だ。
 これは、どちらも間違っている。
 時価会計は、たしかに、デフレを加速する効果がある。しかし、その効果は、大した量ではない。つまり、心理的には大きな意味があるとしても、実体経済としての投資や消費を縮小させる効果はほとんどない。つまり、実体経済としてのデフレの原因にはならない。
 だから、「時価会計をやめればデフレがたちまち解決する」なんてことは、ありえない。スズメの涙ほどの効果があるだけだ。
 そもそも、「時価会計をやめよ」と主張している人々は、自分が何を言っているか、よく考えるといい。それは「株価を時価以上に評価せよ」ということであり、「粉飾会計をせよ」ということだ。「実態の価格以上に価格をつり上げれば、帳簿上の数字が好転する。だから企業の財務を、実態以上に良く見せかけるため、帳簿の数字を操作しよう!」というのが、彼らの主張だ。愚の骨頂。

 結語。
 デフレを解決するには、実体経済そのものを好転させるしかない。消費や投資を実際に増やすしかない。「帳簿の数字をちょろまかせば、金がなくても金があるように見えるので、人々は金を多く使うようになるだろう」なんていう主張は、正気の沙汰ではない。
 どうしても帳簿操作をしたいのならば、竹中や銀行経営者を解任したあとで、エンロンなどの不正処理をした社長を就任させるといい。ただし、そういうふうに不正処理をすることで、日本経済の信認が増すかどうか、よく考えてみよう。
 余談だが、私は整形美女は、好きではない。本当の美女が好きである。どうやら、私は普通の経済学者とは、趣味が異なるようだ。


● ニュースと感想  (3月24日b)

 時事的な話題。「産業再生機構」について。
 先日、読売の提言が連載されていた。( → 3月13日 ) そのなかでも、「産業再生機構で企業再生を」というのは、特にひどい。指摘しておく。
 この件については、前にも説明したことがある。
 (1) 「均衡・不均衡」が本質である。 ( → 11月13日
 (2) 政府が個別に関われる企業は、九牛の一毛にすぎない。 ( → 2月09日b の[ 参考 ] )

 上の二つを先に読んでほしい。すると、読売の主張のどこがおかしいか、よくわかる。
 結局、大切なのは、「不均衡」を「均衡」にするマクロ的な政策だけである。そうすれば、市場原理で、すべてはうまく行く。逆に、個別企業に介入しようとするの発想は、有害無益である。「不況解決のためには、市場への国家介入こそベストだ」という主張は、完全な勘違いである。

 [ 付記 ]
 「ハゲタカファンドに任せるな」とか、「安易な市場原理に任せるな」とか、読売はまったく社会主義国家のようなことを主張している。とんでもない。市場原理というものそのものを否定するのは、経済学音痴をさらけ出すだけだ。
 市場原理が不完全なのではない。市場原理が機能しなくなっているという状況が問題なのだ。つまり、不況という状況こそ、問題なのだ。勘違いしてはならない。
 たとえて言おう。冬の日に、気温が冷えて、生産設備が正常に働かなくなった。すると、社会主義信奉のエコノミストは、こう言った。「国家介入がベストだ。国家が生産設備を操作すればいいのだ。工場にいる経営者も労働者も、国家の言うことを聞け」。この主張に従って、政府の官僚が乗り込んできて、経営を担当した。とたんに、状況は最悪になった。
 正解は? もちろん、「気温が冷えた」という状況をそのものを変えればいい。たとえば、工場内を暖房すればいい。あるいは、春になるまで待てばいい。それだけのことだ。一方、「国家が企業の経営に介入すればいい」なんていう案は、社会主義者だけが信じる、狂気の沙汰だ。(マクロ経済音痴の見本。)

 [ 補説 ]
 こういう国家統制主義者に、正解を教えておこう。
 国がなすべきは、「国民間や企業間や産業間の配分をなるべく変えずに、所得や生産を拡大すること」である。そして、その最適の方法が、「国民に一律に貨幣を渡すこと」である。
 そういう正解と比べると、次の施策は難点がある。
 こういうふうに個別の部分だけに金を渡して、その全体をいくら足しても、決して国民全体に平等に金が渡るわけではない。しかも、総額は、ごく限られたものにしかならず、十分な効果を発揮することができない。
 そもそも、個別の分野を促進するというのは、国家による市場への介入に他ならない。やればやるほど、デメリットが出る。たとえば、公共事業を莫大に増やしたあと、景気回復後に公共事業を急減させれば、増えたり減ったりで、土建産業がおかしくなる。
 国がなすべきは、個別の分野や企業への介入ではなく、マクロ的に総所得や総生産を変えることだけなのだ。景気変動というマクロ的な経済現象に対しては、マクロ的な経済対策だけをなすべきなのだ。この原則をはっきり理解しよう。
 マクロ的な経済現象に対して、個別的な経済対策をなそうとするのは、とんでもない勘違いだ。たとえば、蜂の大群が押し寄せたとき、蜂の大群を一挙に退散させるように煙を焚くならば、有効である。しかし、蜂を一匹一匹ずつつかまえようとするのでは、必ず失敗する。


● ニュースと感想  (3月24日c)

 時事的な話題。給与の「成果主義」について。
 春闘で「定昇廃止」などがなされるのに関連して、「成果主義」という美名が堂々とまかり通っている。新聞でも「当然だ」という解説が多い。(例:読売・社説 2003-03-13 ) しかし、今の「成果主義」というのは、実はただの「賃下げ」のことだ。勘違いしないようにしよう。

 初めに言っておくが、企業は、「能力給」とか「成果主義」とかいうものを、本気でやるつもりは、全然ない。証拠は? 女性差別だ。どこの企業であれ、女性の給料は能力に関係なく低く、昇進も差別されている。実証は簡単で、各企業における女性管理力の割合を調べればよい。日本企業では全然ダメで、外資系企業では良い。差は歴然としている。
 こんなことは、私が言うまでもなく、各新聞がそれぞれ何度も報道している。(例:読売・夕刊 2003-03-13 )

 では、企業は、「能力給」とか「成果主義」とかいうものをやるつもりはないのに、なぜ、それを主張するか? 「賃下げ」のためだ。つまり、「高齢者の賃下げ」と「若年者の据え置き」を同時に実施することで、全体の給与を下げる。それを「能力給」とか「成果主義」とか称する。一種の詐称であり、詐欺も同然である。

 原理的に言おう。「能力給」とか「成果主義」とかいうものは、「配分の変更」を意味するにすぎない。配分の変更など、やりたければ、勝手にやるがいい。そもそも、やってもやらなくても、企業にとっては損得はない。しかし、「配分の変更」ではなくて、「総額の抑制」ならば、企業にとっては得になる。そして、その「総額の抑制」をするとき、同時に「配分の変更」を実施する。それを「能力給」とか「成果主義」とか称するのだ。

 ま、賃下げをするかしないかは、各企業の判断だから、他人がつべこべ言うべきことではない。私としては、企業に「賃下げをやるな」とは言わない。やりたければ、勝手にやるがいい。
 しかし、新聞社の使命は、事実の報道である。虚偽の報道ではない。詐欺師の主張をそのまま掲載するようなことでは困る。
 新聞社の報道するべきことは、次のことだ。
 そして、もう一つ。一番肝心なことがある。「賃下げ」による「総所得の低下」は、「総所得」の縮小を通じて、「総需要」と「総生産」を縮小させる、ということだ。
 「賃下げ」を歓迎しつつ、その一方で、「デフレを解決せよ」なんて主張する人は、論理矛盾を起こしているのだ。
( → 1月27日c 「定昇廃止」)
● ニュースと感想  (3月25日)

 【 注記 】
 本日分(3月25日a 〜 g)は、戦争へのコメントばかりです。
 かなり分量があります。読みたくなければ、読まなくて構いません。




● ニュースと感想  (3月25日a)

 時事的な話題。「戦争と報道」について。
 日本最大の部数を誇る新聞社の記者に、言っておこう。
 その新聞の紙面では、戦争を是認する意見ばかりを掲載しており、反対する意見を一つも掲載しない。それどころか、世の中にある戦争反対のデモの記事さえ報道しない。自社の方針を「戦争賛成」と決めて、他の意見をすべて無視・抹殺する。政府の意見と同じ意見だけを報道して、他の意見には報道管制を敷く。ひどい独裁体制だ。
 私は、あなたたちの意見が間違っているとは言わない。意見というものは、賛否があるし、どちらが正しいかは、神のみぞ知るだ。だから、意見の是非は別としよう。しかし、言論人として、御用新聞であることに、あなたたちは、恥ずかしくないのだろうか。
 政府と同じ意見しか許容しない、というのは、言論の自由の否定である。あなたたちは、言論の自由を守るために新聞社にいるのではなくて、言論の自由を否定するために新聞社にいるのだ。
 そして、これは、ひところの朝日と同じである。かつて朝日は、「小泉礼賛」ばかりをしていた。近ごろ、デフレの深刻化にともなって、ようやくその態度が改まったと思ったら、今度は、読売が「政府礼賛」だ。
 まったく、あっちもこっちも、腐った連中ばかりだ。日本の言論界というのは、言論の自由を権利として得ていても、それを自ら捨ててしまう連中ばかりなのだ。

 [ 付記 ]
 読売は、言論人としてのモラルだけでなく、そもそも言論人としての文章能力が欠落している。まともに文章を書けない。そのことを指摘しておく。
 「イラク攻撃は是か非か」ということの争点は、「侵略もしていない国を先制攻撃することは是か非か」ということだ。そして、是でも非でも、その論拠を述べればよい。たとえば、公明党は、こう述べている。
 「先制攻撃は良くない。しかし、日米関係の重要性からして、日本は米国を支持せざるを得ない」と。
 ここでは、「非」という回答を出したあとで、別の観点から、「支持」という回答を出している。そして、前者よりも後者の方が重みを持つから、差し引きして、「支持」の方が大きくなる、というわけだ。これは、論理的である。
 しかるに、「日米関係が重要であるから、先制攻撃は是である」というのは、全然論理になっていない。こんな理屈(論点のすり替え)が成立するなら、次のような理屈も成立することになる。

 「日米関係が重要であるから、米国による侵略は正しい」
 「日米関係が重要であるから、米国の核使用は正しい」
 「日米関係が重要であるから、米国の環境破壊は正しい」
 「日米関係が重要であるから、米国による日本爆撃は正しい」
 「日米関係が重要であるから、ワインよりもバドワイザーがおいしい」
 「日米関係が重要であるから、1+1=3 である」

 はっきり言って、読売の論理力は、メチャクチャである。入試の小論文で、読売のような回答を書いたら、「論理力不足」で、落第点しかもらえない。
 だから、勧告しておこう。「戦争賛成」の意見を述べるなら述べるでいい。しかし、それなら、もっとまともな論理で書くべきだ。支離滅裂な論理で書いても、頭の悪さを暴露するだけだ。


● ニュースと感想  (3月25日b)

 時事的な話題。「戦争と安保」について。
 意見を言うわけではないのだが、論理矛盾を見出したので、指摘しておく。
 「日米安保条約」というのは、「日本が米国に多額の献上する」ことを代償として、「日本の防衛をしてもらう」ことであった。「多額の金を献上するのは、いざというとき、必ず米国が日本を救ってくれるからだ。米国は信頼できる」ということが根拠だった。
 ところが、最近、保守派の人々は、これを真っ向から否定している。「日本がいっぺんでも米国に批判的な言葉を言えば、日米関係は根本から揺らいでしまう。米国はいざというときに、日本を助けてくれない」と。

 驚くべきことだ。あれほど「米国は信頼できる」と主張していた人々が、一転して、前言をひるがえして、「米国は信頼できない国だ」と言い張っている。長年にわたって、莫大な金を献上されたのに、ただ一言、「不支持です」という言葉を聞いただけで、それまでの五十年の同盟関係を一挙にくつがえして、「日本が攻撃されても、ほったらかすだろう」というわけだ。
 なるほど。米国というのは、そういう国なのだろう。長年の条約をホゴにするような、まったく信頼できない国なのだ。「裏切り者」という言葉がぴったりだ。

 どんな2国間の関係であれ、完全な隷属関係にあるのでなければ、意見の食い違いはある。そもそも、たがいの意見の食い違いを認めるのは、民主主義である。(フセインのような独裁主義ならいざ知らず。)
 だから、日米が民主的な関係にあるのを前提とすれば、「今は米国支持が絶対に必要だ」というのは、「米国はいざというときに信頼できない裏切り者だ」という結論となる。論理的な必然。
 ついでに言えば、「米国は信頼できない」と主張しているのは、私ではない。保守派の人々だ。私は論理を指摘しているだけだ。

 [ 付記 ]
 上の論理から言えば、日米安保条約というのは、いざというときにはまったくの役立たずだから、さっさと廃棄した方がいい、ということになる。金がかかるだけ、無駄である。
 で、もし北朝鮮が攻めてきたら? そのときは、全然心配ない。どこかのカウボーイがやってきて、たちまち蹴散らかすはずだ。その証拠は? クウェートを見るがいい。同盟国でもないクウェートを救うために、さっさと駆け参じた。クウェートなんてのは、ちょっと石油があるだけで、アメリカにとっては死活的に大事な国ではない。一方、日本というのは、アメリカにとって死活的に重要な国だ。この国を北朝鮮にとられたら、それこそ悪夢である。たとえ「そんなにあわてて来なくていい」と言って、お引き取りを願っても、強引に押し寄せてくるはずだ。例によって、カウボーイ気取りで。
 ついでだが、北朝鮮と日本の間には、日本海がある。ここを渡ってこられるはずがない。来れば、撃沈されるだけだ。テポドンは、どうせ日本には届かない。届くとしても、アメリカには撃墜できない。結局、「北朝鮮が、怖い、怖い。だからアメリカにダッコされたい」と脅えるのは、よほどの臆病者だけである。それでも男なんですかね。


● ニュースと感想  (3月25日c)

 時事的な話題。「戦争と小泉」について。
 開戦直後の、小泉首相の談話。米国を支持する理由は、「イラクは国連決議を無視し、軽視し、愚弄してきた」から。
 ふうむ。なるほど。この分だと、私も小泉に逮捕されて、銃殺刑にさせられそうだ。「南堂は政府を無視し、軽視し、愚弄してきた」からだ。
 原理的に考えよう。刑法によれば、「おまえは殺人を犯したから、死刑にする」だろう。ところが、小泉によると、「おまえは政府の言うことを侮辱したから、死刑にする」となる。── つまり小泉は、民主主義を否定して、独裁圧政を主張しているわけだ。こんな人物だったとは!

 [ 付記 1 ]
 米国の主張は、「イラクを独裁から解放するため」だという。
 ふうむ。そのうち、「日本を独裁から解放するため」という名分で、同じようにして、日本を救い出そうとしてくれるかもしれない。
 われわれもそろそろ、頭の上に降りかかってくるものから、身を守る用意をした方がよさそうだ。これは、杞憂ではない。天は落ちてこないが、爆弾は落ちてくる。……そういえば、ときどき米国の戦闘機が、空から墜落するな。ひょっとすると、原発に。……

 [ 付記 2 ]
 「〓〓は国連決議を無視し、軽視し、愚弄してきた」の例。
 この〓〓という国は、攻撃されるべきだろうか?

 [ 余談 ]
 なぜブッシュは攻撃をするか? その本当のことを教えよう。
 それは、彼が父親コンプレックスだからである。何をやっても、父親に比較させられて、「ダメ息子」の烙印を押され続けてきた。そこで最後に、「父親のできなかったことをやり遂げよう」と思って、同じことをやろうとしているのだ。
( ※ 父親はあえて中断したのだが、息子はそれを理解できないわけだ。ドラ息子というのは、どの国でも、ろくでなしである。小泉ジュニアが首相になれば、きっと、不況をさらに悪化させることに熱中するだろう。それと同じことだ。)


● ニュースと感想  (3月25日d)

 時事的な話題。「戦争の必要性」について。
 世間では「戦争反対」という声が強いが、いくら叫んでも、無駄かもしれない。戦争というものは「必要なもの」として、経済に組み込まれていて、避けがたいからだ。
 湾岸戦争では、「正義」の美名のもとに、戦争がなされた。こちらを標準的な戦争だと考える人が多い。しかし、私の考えでは、こちらはあくまで例外的な例である。フセインという独裁者がたまたま都合よく侵略をしたから、それに乗っただけだ。普通、総都合よく、独裁者による侵略というものは起こらない。だから、こういうタイプの戦争は、めったに起こらないものだ。
 一方、それとは逆に、「アメリカによるカウボーイ登場型の戦争」というのは、ちょいちょい起こる。だいたい、15年にいっぺんは起こる。1950年の朝鮮戦争以後、1965〜1973年のベトナム戦争にせよ、1989年末のパナマ侵攻にせよ、だいたい、15年間もたてば、次の戦争を起こすに決まっている。それも、必ず米国が。
 なぜか? そうしないと、旧式兵器をうまく更新できないからだ。平気が耐用年数を経ると、廃棄しなくてはならないが、廃棄すると、莫大なコストがかかる。一方、戦争をすれば、「戦争費用です」と議会に請求できる。議会としても、それで軍事産業の雇用が増えるし、どうせその分は日本にツケ回しすればいいから、賛成する。
 だから、戦争は、相手が悪党であるかどうかにかかわらず、どうしても必要なのである。
 そこで、私は、予言しておこう。今夏の戦争のあと、およそ15年ほど後に、また戦争が起こる。そのときも、戦争は、米国が起こす。平気の更新のためには、どうしても戦争が必要なのだ。
 戦争相手が見つからなければ? そんなものは、適当に作り上げればいい。今回だって、「大量破壊兵器があるから」と言っていたが、結局、見つからなかった。名分などは、どうでもいいのだ。戦争をすること自体が目的なのだから。
 それに、正しいかどうかなんてことは、全然関係ない。日本のような犬は、どうせ米国の言いなりに、いつでも「ワン」と吠えるのだから。

 [ 付記 ]
 15年も待つ必要はないかもしれない。先日読んだ雑誌によると、こうだ。
 「聖書の暗号」という本に書いてあることだが、この本は、少し前の「NYビル・テロ」を予言したという。
 さらに将来については、「 2006年には、世界大戦が勃発する」と書いてあるそうだ。そうなる前には、核兵器も使われて大虐殺が発生するらしい。
 なるほど。世界大戦か。小泉もブッシュも保守派も、そうなれば大喜びだろう。「また戦争だ! 万歳!」


● ニュースと感想  (3月25日e)

 時事的な話題。「戦争と経済」について。
 戦争の経済的影響は、直接的な分は、予想されて、報道されている。しかし、もう一つ、怖いものがある。
 湾岸戦争のときは、130億ドルの支援金を米国にプレゼントした。私の記憶違いでなければ、その前にも別途、ほぼ同じ名目で 30億ドルを渡して、計 160億ドルを渡したはずだ。その分は、増税でまかなった。約2兆円の増税。
 これは、バブル崩壊後の景気悪化の時期に重なった。景気悪化の責任として、日銀の責任ばかりが指摘されるが、湾岸戦争の影響も非常に大きかったのだ。病人に寒風を吹きつけるような、ひどい悪影響があった。
 そして今、病人はさらにひどい状況になっている。この先、どうなることやら。ふたたび何らかの名目で2兆円を奪われ、2兆円の増税となりそうだ。景気の先行きは、非常に暗い。
( ※ 戦争の直接的な悪影響としては、原油価格の高騰や、輸出の悪化など、いろいろとある。円高は、輸出産業の採算性を悪化させる。……これらをまとめると、かなり大きな額になりそうだ。)

 [ 付記 ]
 朝日に、試算を報道した記事がある。(朝日・朝刊 2003-03-21,22 )
 米国の戦費は、数百億ドル規模。戦後の復興・駐留費も、数百億ドル規模。
 外国に負担してもらうことは、今回はできそうにない、という見通しもあるが、少なくと日本は、嬉々として差し出すだろう。何しろ、小泉自身が、頼まれもしないうちから、「日本は戦後復興に協力する」と主張しているのだから。
 さて。各国に費用を負担してもらわないと、米国は、1000億ドル程度のコストをまかなわないといけないらしい。湾岸戦争のときは、約 600億ドルの戦費で、そのうち9割ほどを外国に負担してもらったという。米国はほとんど無料で、兵器を更新できたわけだ。ボロ儲け。
 今度は、そうは行かない。となると、「ざまあ見ろ」と思う人もいるかもしれない。しかしそれは浅はかである。多大な戦費を世界各国で負担したからこそ、世界経済は歪まなかったのだ。今回、米国が 1000億ドル程度を自分で払うとしたら、米国の経済は明らかに歪む。その影響を受けて、日本の経済も歪む。たとえば、対米輸出が悪化する。今は浮かれている自動車産業も、真っ青になるかもしれない。
 下手をすると、米国発の、世界恐慌になりかねない。 1000億ドルの費用をどう払うか。それが問題だ。
 「働いて返す」のならば、問題はない。それは差し引き、兵器をタダ働きで生産したのと同じだ。穴を掘って埋めるのと同じだ。単に労働時間が増えただけだ。具体的なマクロ政策としては、「スタグフレーション」対策のタンク法と同じで、「増税と低金利」をやればよい。
 一方、マネタリスト的な方法もある。「多大なコストを財政赤字でまかなう。その分、貨幣量が増える。すると物価が上昇する。そこで金利を上げる」という行き方だ。すると、高金利になる。アジア通貨危機のあとのアジア各国に似ている。こうなると、世界恐慌も、あながち絵空事とは言えなくなる。
 ケインズ政策は、インフレをもたらすだけだが、マネタリスト政策は、スタグフレーションをもたらして経済を破壊しかねない。


● ニュースと感想  (3月25日f)

 時事的な話題。「戦争と米国没落」について。
 米国の一極化状態が続いているように見える。政治的も経済でも、米国ばかりが突出している。では、これは、永続するだろうか? 
 私の予測を言おう。米国はいずれは没落する。そして、それは、米国の驕(おご)りがあるからだ。
 米国の軍事力は突出している。しかし、軍事力が突出していれば、軍事費の負担も突出していることになる。その負担は、長期的には、大きな重荷となる。やがては負担のせいで、低成長が続き、他の諸国よりも劣った状態となるだろう。
 米国の人口は、さして多くはない。欧州とは大差がないし、日本と比べても2倍程度にすぎない。しかるに、軍事力は、圧倒的だ。ということは、軍事費の負担も圧倒的だということだ。

 米国はかつて圧倒的な経済力を誇っていた。日本は足元にも及ばず、欧州も弱体化していた。対抗できそうなのは、ソ連の軍事力だけだった。そのソ連は、軍事力の負担に耐えかねて、自己崩壊した。
 似たことは米国にも起こるだろう。ソ連ほど急激ではなくても、重い軍事費の負担に耐えることは困難となる。米国が重たい石を背負っている間に、身軽な諸国がどんどん背後から迫ってくる。
 米国はすでに電器産業を相当失った。鉄鋼業も同様だ。栄光を誇った自動車産業も落日の勢いだ。残るのはIT産業だけだが、これだけで生き延びることは不可能だし、いずれは他国に追いつかれる。

 米国の所得水準は、昔のような突出した水準ではなくなり、他国と同程度の水準にまで落ちてしまった。換言すれば、ドルはそれだけ暴落した。少なくとも所得の分野では、「一極の突出」はとっくの昔に崩れている。にもかかわらず、軍事費の負担だけは、突出している。とすれば、これは、ソ連のたどった道と同様だ。
 軍事力に頼る米国の驕りは、自分自身を崩壊させることになるだろう。

 [ 付記 ]
 ただし、である。欧州と日本が勝手に自分でこけていれば、米国の突出は続く。そして、そうなる可能性は、結構ある。なぜなら、世界経済では、マネタリズムが主流だからだ。マネタリズムは、景気の悪くない米国では、有効である。しかし、景気の悪い欧州と日本では、無効であるし、かえって状況を悪化させる。
 欧州と日本が、マネタリズムを捨てて景気を回復させるかどうかが、世界の平和に大きく影響する。もし欧州と日本が、強大な経済力を誇り、米国を圧倒するようになれば、米国は戦争ごっこなんかやっている暇はないはずだ。そのとき、世界は平和になる。






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「小泉の波立ち」
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